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『グラスリップ』の「なにをやりたいのか分からない」感について

 

今のところ『グラスリップ』は「なにが起こっているか」は分かるのだけど「なにをやりたいのか」が分からない、という奇特なアニメです。捉えどころのないアニメというのではなく、半分以上を見て私が捉えたところの感想がこれなのです。

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P.A.WORKS作品というミスリード

制作のP.A.WORKSは、『true tears』を始め、岡田磨里さん脚本の地方を舞台とした群像メロドラマという強力なコンテンツがあり、なにか本作の設定もそれを予想させます。「メロドラマ」はジャンルとして基本的なもので、石岡良治さんの本でも言及されていましたが、「勝つか負けるかの善悪の素朴な二元論的戦いであり、それゆえ二元化されたモラルをめぐる省察*1です。要するに、「好き嫌い」「振った振られた」の世界です。

ただし、「群像劇」というのは曖昧な用語で、「主要登場人物が多く、それらの人間模様が描かれる」程度の意味でしょう。私見では、映画で群像劇というような言葉が使われる場合は、ストーリによる強力な求心力がない場合であるような気がします。よく分からないのでなんとんかく「群像」という言葉でお茶を濁す、というか。

一方で、青少年を主役とするアニメでは、群像劇を行うと、メロドラマ的になりやすいのだと思います。ところが『グラスリップ』は群像劇ではあるが、メロドラマ要素が思ったより強くない。『グラスリップ』の「なにをやりたいのか分からない」感というのは、そういう今までのP.A.WORKS作品の系譜からのミスリードで起こりました。数話を通して私が了解した印象としては「美しい地方の町を舞台に青春の機微を瑞々しく描く(恋愛劇がメインではない)」アニメということですが、ジャンルとして参照項がなくて、作品のタイプを把握するのに数話を要するというのは、深夜アニメでは致命的かもしれません。もちろんそこにはP.Aブランドというミスリードも加わります。

 

●群像劇として成功しているか

ですから、『グラスリップ』をメロドラマというよりも正統な群像劇として考えてみます。上記で、アニメだと群像劇がメロドラマ化しやすいと書きましたが、『グラスリップ』は映画的な意味での群像劇をやろうとしているような気がするからです。

たくさん登場人物が出てきて、それぞれの人間模様が描かれて、劇的な事件も起きずに終る。「映画的」という言葉は、たとえば「リアル」という言葉がそうであるように、いろいろな意味を含んでいる形容詞ですが、この場合、ストーリーの求心力が強くないという意味です。前エントリーで、「アニメ」の定義として「ストーリー表現に重点」という記述を引用しましたが、まさにその意味で、ストーリー表現が希薄で、アニメっぽくない部分があるわけです。*2

たとえば第二話までは、メロドラマの予兆がありました。第一話では転校生のカケルがやってきてボーイミーツガールの物語が始まる。主人公のトウコは、とある勘違いから仲良しグループ内で「恋愛解禁」宣言を行います。しかし逆にそれが原因で三角関係が生まれて、ユキナリから告白を受ける…というような展開です。しかしそれ以降は、主要登場人物たちは一応恋愛感情で動いているのだが、劇的な展開がない。ある意味、ジャンル化された日常系とは違った意味で、しっかり日常してます。

たとえば編集の仕方。場面が頻繁に切り替わり、恋愛とは直接かかわらないような描写が積み重ねられます。主要人物以外にも、グループの一人のカチューシャの青年の姉、カケルの父とピアニストで実家をよく空けているらしい母、主人公の妹、などと本筋と関係のなさそうな人物の描写も多いです。その描写というのが、映画の群像劇的で、設定をセリフで説明せずに何気ない日常描写の奥に匂わせるという具合です。つまり無駄な説明を省き、細部を描いて全体を想像させる、といういささかハードボイルドな手法です。

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↑ カチューシャのヒロの姉。病院に通い詰めているらしいい。なぜか病室を背にして涙を流す描写が(ヒロの目撃というかたちで)インサートされる。

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↑ これも主人公グループとは関係なくインサートされる情景。ちょっと特殊な夫婦関係らしい。最後はハーモニー

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↑ スク水で駆け出してきたトウコの妹。ユキナリに追いついて話しかける。第7話で急に絡んできた。

 

他に編集面では、カット間の時間を大きくジャンプして、物語の流れや結びつきをわざと切断し、視聴者の想像力に委ねているようなこともあります。驚いたのが6話の最後で急接近したトウコとカケルが、次の7話の冒頭で当たり前のように手をつないでいたことです。

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↑ これが6話の終わり。まだ昼。

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↑ 7話のアバンタイトル。カメラが足元から上へ移動すると手をつないでいたことが発覚。いつの間にか日も暮れている。

 

ただしこれら映画的な群像劇が成功しているとは言い難いと思います。そういう作劇は実写の情報量があってこそ観客に波及するような遠心力を発揮すると思うからです。たとえば実写でやれば思春期の過剰さや異常さが出そうな、スクール水着で自転車をこぐというシチュエーションもアニメでしてしまうと、ただのあざとい萌え要素に還元されてしまいます。ですからここでも「なぜアニメでこれをやるのか」というような「なにをやりたいのか分からなさ」が生まれました。

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↑ ユキナリを追いかけながら

 

 あとは表現手法。「ハーモニー」という止め絵の技法があり、西村純二監督の得意技ですが、これも必然性が感じられなくて、「なんでここで止め絵?」といった感じになります。この手のアニメの演出表現が優れているのは、それ自体は特異な技法なのに、アニメ内のリアリティと調和して、特に違和感を感じさせない―つまりそれが技法であることを意識させないということにあると思います。ところが西村監督のハーモニーは技法だけが立ってしまっており、これが西村監督の好む技法だというリテラシーがなければ混乱してしまうのではないでしょうか。

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↑ 全裸という設定。これは特に「ここで?」という感じ。

 

 

以上ざっくばらんな感想です。――と、否定的なことを書きましたが、上記のような理由から、割とぼーっと見れるし、そうかと思うと変態的な感性があるし、主人公カップルの内面の空虚ぶりも見どころであり、むしろ後半からこのテンポに慣れてきたところもあり、このアニメ嫌いではありません。

 

 

 

*1:加藤幹朗『映画ジャンル論―ハリウッド的快楽のスタイル』より。さらに続けて、「極限すれば、すべての映画はメロドラマか非メロドラマのいずれかに分類できるのである。そして前者が後者を量的に圧倒する」とのことです。

*2:似たような理由で『花咲くいろは』で西村ジュンジ名義脚本の第10話、第16・17話も、シリーズ中では凝ったプロットだなあと思いました。