『視覚文化「超」講義』メモ
●「モードとしてのメロドラマ」
- 作者: ジョン・マーサー,マーティン・シングラー,中村秀之,河野真理江
- 出版社/メーカー: フィルムアート社
- 発売日: 2013/12/06
- メディア: 単行本
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・トッド・ヘインズ
・荒木飛呂彦の「男泣き」
・岡田麿里
●「ホビー」という分野を扱う難しさ
ホビー(鉄道、釣り、料理、囲碁・将棋・チェスのようなアナログゲームなど)は芸術との折り合いが悪い。人文・芸術系の文化論で扱いにくい。
例えば以下のような理由
・陰謀論・オカルト・疑似科学などの科学へ接近できないいかがわしさ
※UFOとポストモダン (平凡社新書) の知的なアプローチなら文化論として可能
ちなみに私自身は、以前に岡田 斗司夫の東大オタク学講座 (講談社文庫 )を読んだ時に、まえがきでオタクと批評行為をしっかり関係づけつつ、「光のオタク編」「闇のオタク編」と称し、ニッチなテーマを嬉々と語る姿勢には驚かされました。
●最近の日本のアニメ
・実写に基づく背景と3DCGによるキャラクター
※レイヤーシステムの伝統
(アニメ・マシーン -グローバル・メディアとしての日本アニメーション-)
・「2013~2014に至り、これまでの3DCGにおけるアニメーション表現の思考錯誤の結果、ようやく 3Dに対する抵抗を突破した感があります」(ゲーム、MMD動画の影響)
『フレッシュプリキュア!』のエンディング
『蒼き鋼のアルペジオ』(セルルック)
あと、最近話題になったのは『シドニアの騎士』。ニコ生で石岡さんもその3Dの必然性を評価していました。とくにガウナから分離したエナ星白のプカプカ感について絶賛していたような…
ちなみにアニメの「作画」という概念がありますが、ファンが放送期間を通して作画の乱れを云々するとき、たとえそれが「崩壊」したとしても、リアルタイムな手作業としてのアニメを楽しんでいる部分があると思います。あるいはチープな作画が妙に作品の安っぽさにマッチしているというキャンプ感覚(下記キーワード参照)。だから作画の質ではなく、作画という概念自体がファンのアニメ経験を支える大きな要素の一つだと思うのですが、3DCGが主流になったら、作画の質の要素は残っても乱れの要素はやはり消えるのでしょうか。
・エドワード・マイブリッジ=『ストリートファイター』
エティエンヌ=ジュール・マレー=『バーチャファイター』
●その他キーワード
・ファンコミュニティ
・ノスタルジア消費
・ガジェット(ノスタルジアを誘発)
・キッチュ(フェイク・イミテーション・キャンプ)
こんなかんじです。まあ、キーワードでリンクしていく感じです。個人的には「ファンコミュニティ」の可能性というテーマが、物珍しく興味を引きました。ただしそれに対して明瞭な定義がないので、なんとなくワクワクするけど消化不良でした。
本書は、人によっては「何が楽しいの」「だからどうしたの」といった世界です。とはいえ、こういうスタイルにエキサイトしてしまうのが人文系の批評メンタルというものでもありましょう。
たぶん…だけどニューアカの登場で、こういう風にいろいろなキーワードをリンクさせる批評スタイルが、ファンタジスタのような天才性や遊戯性に結びついたのではないでしょうか。そして読んでいるオーディエンスもそのパフォーマンスを楽しむのです。
本書はフィルムアート社で実際に「講義」スタイルで行ったものをまとめたということですが、まさに放談といった感じです。「自宅警備塾」の石岡さん、本当に楽しそうだなんだよな。