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読書の備忘、アニメの感想などを書いています

アニメとデジタル一眼レフとカメラ女子について語りたかった

 

ちょっと思いつきになります。

以下の考察について実証性は低いのでご容赦ください。笑

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●アニメのボケ表現について

ときどきアニメの「ボケ bokeh」表現で、違和感を感じることがあります。一般的にボケはレンズの被写界深度との関係で生まれるものですが、昨今のアニメにおいて人工的に作るボケに関しては、一概にボケ/被写界深度という対応関係を言いきれない事情があるような気がします。

 

で、私は「デジタル一眼レフデジイチ/DSLR)の浸透とその表象(ボケ主義)」、「カメラ女子*1の流行(ハイテクのカジュアル化)」、「女性アニメ監督の活躍(主に京アニ。というか山田尚子監督)」の三要件を関連付け、山田尚子監督はカメラ女子であり、そのデジイチ感覚*2が作品に反映されている――という仮説をでっち上げられたら面白いと思ったのですが、ちょっと無理そうなので、その周辺で気付いたことをメモしておきます。

 

デジイチがもたらしたものとは何か

デジイチがもたらしたもの。それは「プロっぽい」映像のカジュアル化とでも言いましょうか、「いかにも」な映像が手軽に撮れるということです。そしてそれを支えているのが、「ボケ(味)」の存在です。

被写界深度(ピントの範囲)の浅い映像=ボケの多い映像は、余計な情報を排して被写体が浮かび上がるような質感を演出します。そして高級機種ほど撮像素子が大きいのでボケの多い写真を撮れるという、おそらくカメラメーカーのプロモーション上の事情から、ボケがリッチな写真の代名詞*3のように宣伝されるようになりました。*4

さらにデジイチは写真だけでなく、そのような動画も簡単に撮れるのです。CMやMVなどプロの現場でも重宝されたことで、私たちもそのようなリッチな質感の映像に触れる機会が増えました。

 

 ●ボケの情報構造

アニメにも昔からボケ表現はあります。たとえば手前の人物をボカす。あるいは背景をボカす。

ただし、アニメーションのセル画は被写界深度に影響するほどの物理的な奥行きはほぼないので、あるのはそこに描きつけられた疑似的な奥行きの技術である遠近法の世界だけです。しかし背景とセル画から構成されるレイヤーは存在します。ですからこのレイヤーに序列をつけて、(撮影台を使うのか、デジタル処理をするのかはよく分かりませんが)ボケを演出することが伝統的に行われてきたのだと思います。

また、これはアニメに奥行きを獲得するというよりは、情報量を調整して視聴者の視線を誘導するという、作劇をサポートする演出としてなじみが深いような気がします。*5

たとえば最近のアニメから。

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↑  『魔法科高校の劣等生』第一話 主人公グループにピントがあっており、ほかのモブたちはボケている。そしてそのボケ具合も、距離感に準じていくつかのレイヤーに分かれている。アニメではここに主人公たちの会話の音が入るので、ロングショットながらも、すぐに主人公グループに視線がいく。

 

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↑ 『残響のテロル』第一話 モブの退避シーン。モブのボケ具合を利用して、奥行き感を演出。こちらもレイヤーでボケの程度が違う。*6

 

●ボケは3次元を作れるか

さきほど「セル画には物理的な奥行きがほぼない」と書きました。たとえば人間の顔の鼻にカメラをむけたら、鼻の頭にピントを合わせることで目のあたりをボカすことはできるでしょう。しかし人間の顔を描いたセル画にカメラを向けても、それがいくら立体的に描かれていようと、被写界深度を利用したボケはでません。ですから先ほど言及したような、セル間のレイヤーという単位でボケを指定しているのです。

 

デジタルカメラが育む感受性

ここでようやくデジイチ感覚に戻るのですが、デジイチ快感原則があるとすれば、それはシャープネスだと思います。デジタルカメラではディスプレイで、出力された画像をすぐに確認することが可能です。このとき問題にしがちなのは、「重要情報にピントが合っているか」という画全体との関係性だけでなく、「そのピントは本当に正確か」ということです。小さい画面で見たときにピントが合っているように見えて、拡大するとブレていたということは、よくあると思います。つまり、拡大が容易にできるため、詳細に拡大していったときに生じる「ブレはないか」という条件が、シャープネスの成立に大きく関わっています。

ただしここで言及したいのは画像そのものの画質、解像度の話ではなく、あくまでその美学*7に基づいて、一つの画をシャープネス/ボケという関係性で捉えようとする構図の話です。そのようなシャープネス/ボケの演出は、レイヤーによるフォーカス/ボケの演出工学とは異なります。

そして、そのような美学が希求するのはレイヤー間の非連続的なボケではなくシームレス(連続的)なボケなのではないでしょうか。それを同一セル画の上で再現してしまうという倒錯感が、冒頭で述べた違和感につながっています。

 

私の見るアニメからのチョイスなので京都アニメーションに偏っていますが、いくつか例を挙げてみます。

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↑ 『たまこまーけっと』第一話 <被写界深度浅い!演出>職人の手元にフォーカス。そこからフワっとボケが広がる。

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↑ 同上 <被写界深度浅い!演出>たまこの手元にフォーカス。こちらもフワっと広がる。

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↑ 同上 <奥行きボケ>たまこにフォーカスをあてつつ、手前と奥に掛けてシームレスにボカしている。ふつうならパンフォーカスか、手前と奥の人物をレイヤー単位でボカすところ。

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↑ 『境界の彼方』第一話 <奥行きボケ>手前の主人公にフォーカスしつつ、斜めの角度がついた建物に沿って、奥行きをシームレスにボカしている。

 

いかがでしょう。立体感を感じますか?

私はむしろ「あるポイントを起点に同心円上にボケている」という、ただのエフェクトのように感じてしまいます。そしてボカし方の技術が緻密なのか、ボケというよりはむしろ「曇り」、あるいは「ソフトフォーカス」といったピクチャーエフェクトをかけているようでもある*8。だから不自然に感じる。

ところが一方、この辺で、従来の情報構造的なフォーカス/ボケ機能論とは違う表現が生まれているような気もするのです。つまり、もともとボケは「ここに注目するな」というメタ・メッセージとしてフォーカス先を明瞭にするための手法だったり、あるいは空気遠近法として彩度を変えて奥行きを指定する手法だったわけです。しかし、上の京都アニメーションの画像のように、もともとは奥行きの表現だったボケが(レイヤーではなく同一平面でそれを再現するという)不可能性のために前景化し、ボケそれ自体が「リッチ感」を喚起する装置として機能しているような気もする。そしてこれは「手間をかけている」からリッチなのだというよりも、映像のテクスチャーそのものがもつ「プロっぽさ」からくる「リッチ感」です。

 

まとめますと、実写のデジイチ被写界深度を再現できているわけではないが、ある種のリッチ感の表現にはなっている、ということになりましょうか。うむ、暫定的にそうしておきましょう。

 

 

おまけ1 やっぱりオシャレ!

視点移動の常套技術であるフォーカス送り(ピン送り)について、京都アニメーションの例を見てみます。

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↑ 『たまこまーけっと』第一話 鳥が着地した時に、手前の模型に合わせていたピントを鳥の脚に移動。ピントは奥のレイヤーに移りますが、ボケは同心円状に広がるタイプのものです。

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↑ ユイ→リツ→ムギへピントが移る。こっちはレイヤー感がありますね。しかし逆に物語的な意味はなく、オシャレなMV的演出という感じ。

こちらのブログでもそのようなことを指摘されています。(「たまこまーけっと」とジャンプカット - さよならストレンジャー・ザン・パラダイス

 

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↑ おまけ。

なぜかムギをボカしている。奥行きを考えるなら不自然なところですが、あくまでエフェクトと解釈しましょう。この恣意性が新しい。

 

おまけ2 でもやっぱり京アニが気になる!

京都アニメーションの例を引きましたが、もちろんほかのアニメでもシームレスなボケは出てきます。

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↑ 『残響のテロル』第一話 瞳にピントを合わせて、顔の立体感に沿ってボケを調整している。CVは花澤香菜さん、ではない。

 

ただ、うまく言えないけど、やっぱり京都アニメーションの表現とテクスチャーの方に違和感を感じる(気になる)ので、その直感を確かめるために、しばらく様子を見ることとします。

 

追記:『たまこラブストーリー』未見ですが、こちらのブログで「徹底してデジタルぼけが使われていた」と書かれています。わたし、気になります

 

おまけ3 御大の発言もチェック!

アニメ作家とカメラの関係について、明確な意見をもっているのは押井守監督です。彼は自身のレイアウト論講義とも言える『Methods―押井守「パトレイバー2」演出ノート』(1994)を出版しましたが、後年の『勝つために戦え!〈監督篇〉』(2010)で、その文脈を次のように言っています。

そう、僕のはあえて言わせてもらえれば光学的レイアウトってやつなんだよ。要するにパースペクティブ。宮さんのはパースじゃない。画面上の絵柄の収まり具合なんだよ。だから本質的に違うものなの。

(…)

僕がやったのはもっと光学的なレイアウト。絵画的な意味でのパースペクティブじゃなくて、それによって空間を獲得するためのもの。つまりは僕はアニメーションの画面にレンズを導入したんだよ。それは単なる消失点の問題じゃない。僕のレイアウトというのは単に物理的な整合性のある空間を作ったんじゃなくて、光学を、レンズを通したものなんだよね。要するにディストーションが入っている。それである種のリアリティを獲得しようとしたわけだよ。何故かというと、所詮映画は記憶だから、絵画的なレイアウトよりもレンズを通したレイアウトの方がある種の臨場感を伴うんだよ。人間は経験上レンズを通してしか映像を見てないんだからね。

 

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 ↑ 『カリオストロの城』の有名な望遠カメラ演出

あれは宮さんの≪発明≫に近いね。僕もさんざん『うる星』で真似してようやく会得したんだから。道路の端になんかあったらもうアウトだね。端から端まで線一本で貫通しないとまずダメ。しかも長玉の効果を出すために一種の空気感、縦に詰まった空気感を出さなきゃいけない。デジタルだったら簡単にできるけど、昔はガラスを使ったんだよ。ディフージョンを使ったり、フィルターを使ったり。

それに陽炎って言ったってさ、ただ出せばいいってもんじゃない。かすかにゆれている、少しフォーカスが甘くなっている、これがミソなんだよね。フォーカスを合わせちゃいけないんだよ。合わせると、手前と奥と鉛筆の線の太さは変わらないから長玉の効果が出ないんだよね。だから線を少し甘くする。そういう細かなノウハウがいっぱいあるんだよ。画面のコントラストをきつくしちゃいけないとか。長玉で抜いているんだから、空気が圧縮されて全体に彩度が落ちて、コントラストが甘くなるんだよね。背景は情報量を極端に落とさなくちゃいけない、フォーカスが絶対合わないから……とかさんざん真似をしてようやく会得したんだから。

(…)

今だったらデジタルで何でもできるから、みんあホイホイやっているけど、だから逆にレイアウトが甘くなっている。(前掲書)

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↑ 『劇場版 パトレイバー2』より 望遠カメラの典型例

 

押井監督の「空間を獲得」という発言がありましたが、本稿で見てきたような京都アニメーションの例などはむしろフラット化を先鋭にしているような気がしました。こちらのブログでは「フォーメーション」という言葉で京アニの「抽象性」に言及しています。(思索的なブログですが、同じ批評言語でアニメを語るので、とても面白いです。)

最近の京アニの面白さはなんといってもキャラの配置とそれによって可能になるフォーメーションの多彩さにあるのだなあと「中二病…」を観ていると思う。

(…)

それはホークス、キューカー、ルビッチなどによって四十年前後につくられたスクリューボールコメディを想起させるような抽象性をもつ。京アニは、いまもっとも抽象性の高いアニメ作品をつくる制作会社だと思う。

(…)

ただ、この高度なフォーメーション展開は、「物語を語る」こととなかなか相容れない。

 まあ、こちらの文章自体が抽象度が高いので、推して知るべしというところがあるのですが、「スクリューボールコメディ」という言葉が出てくるように、案外昨今のアニメと蓮實重彦氏流の表層批評は親和性があるのかもしれません。アニメの考察系のブログを見ていても、カメラの動線とか、物語以外の抽象的な動きに注目している方が多いようです。

あるいは逆に映画批評の本で、ショットの説明の際に(著作権の問題もあるのでしょうが)絵コンテのような抽象的な挿絵が連続的に使われており、それで用を成しているという事実も面白いと思います。

 

 

*1:アニメでテーマとして扱ったのは『たまゆら』。ミラーレス一眼を使う女子を描いたところにリアリティがあります。

*2:たとえば『東のエデン』とセカイカメラなど、スマホはアニメ内のガジェットとして定着していますが、スマホにしろデジイチにしろ、作り手の方の視覚にどのように影響しているかは気になるところです。

*3:撮像素子が極めて小さい(ボケが出にくい)スマホで撮ることが日常化しているため、ますます彼我の差を感じやすいという事情もあるでしょう

*4:そういったボケ主体の写真観では「ボカす」と言いますが、人間生理的にはむしろ「フォーカス(ピント)を合わせる」が自然だと思います。ところが、アニメの制作工程においては、原則としてすべてにピントが合っている(パンフォーカス)ので、「ボカす」という感覚のほうが親和性があるのかもしれません。

*5:「奥にフォーカスを当てれば、手前は当然ボケるからお客さんの視線を自然に奥に誘導できるんだよ。手前にフォーカスが来れば、奥にどんな俳優がいても背景の一部になっちゃう。だから違う演出効果を期待できる。」押井守勝つために戦え!〈監督篇〉

*6:たとえば「密着マルチ」と呼ばれる奥行きの演出技法など、こういったレイヤーの処理に、アニメ的リアリティは立脚してきました。

*7:もちろんフォーカス/ボケ派にも実用面だけでなく美学があります。それは「実写映画っぽい」ということです。詳しくは本稿「おまけ3」を参照。

*8:その意味でもデジイチ感覚と言っておきましょう