そのアニメ、「シュール」という前に――真夏の昼の超現実
●超日常としての夏休み
夏真っ盛りです。
夏休みというと、学校は長期休暇になりますから、学生の方は『耳をすませば』の雫のように、なにか非日常の始まりを期待してしまうかもしれません。たとえば、これは学生に限らず、田舎への帰省はまさにその典型で、長距離の移動を伴い、彼岸のご先祖様とコミュニケーションとるお盆という慣習には、非日常感があります。また、お盆に限らずシーズンがら様々なイベントが提供されています。
↑ 日常系の非日常「夏フェス」
一方で、そういった行事ではなく、ただ蝉の鳴く音とか、脳がとろけるような暑さを知覚していると、恍惚としてきて日常が変容するような感覚がおこってくるのも夏という季節です。それは非日常感というよりも超日常感といった方が区別しやすいかもしれません。
↑ 日常系の超日常「焼きそばを持ってウォータスライダー!?」
「超」という言葉を使ったのは、巌谷國士『シュルレアリスムとは何か (ちくま学芸文庫)』という本からの入れ知恵です。この本は講演の書き起こしでとても読みやすいのですが、次のような身近な話題から始まります。日本では「シュルレアリスム」を略として「シュール」ということになっているが、全く別の意味のカタカナ語になってしまった。「シュルレアリスム」とは本来「『強度の/上位の/現実以上の』現実」という意味である。つまり現実との連続性を強調している。
ということで、この観点からすると、非現実は「別世界」を意味するので、全く別の概念ということになります。ですから上記の例を応用すると、物理的な移動や環境の変化が伴う非日常感は夏休み的想像力とでもいえるかもしれません。一方日常の延長線上にある超日常感は真夏的想像力とでもいえましょうか。
↑ いわゆる「シュール」 題名はあえて『日常』
●『時かけ』にみる真夏的想像力
夏休み映画でいうと細田守監督の『時をかける少女』と『サマー・ウォーズ』を比較すると分かりやすいかもしれません*1。前者は日常生活の延長線上でタイムイリープが生じます。対して後者は、憧れの先輩の帰省に連れ添って長野に赴き、これが非日常への入り口だったわけですが、そこでさらにヴァーチャルリアリティーという別世界が描かれます。アバターの戦闘がCGで描かれることで現実との非連続性が際立っています。そこで描かれる戦いはハードですが、不思議と視聴者はその痛みを共有しません。それは時を軽やかに跳んでいた(リープ)マコトが、坂道から転げ落ちたときに味わった身体の痛みが現実世界のものであったのとは対照的です。
↑ 『サマー・ウォーズ』
↑ 『時をかける少女』
まあこれは少し極端な対比でしたね。マコトの反省(リープ→落下)というのはジュヴナイルの道徳的教訓であって、超現実感はリープそのものに象徴されています。あるいは『ひぐらしのなく頃に』、『涼宮ハルヒの憂鬱』の「エンドレスエイト」、『シュタインズ・ゲート』などのループものの舞台が夏であることは偶然ではないと思います。
●シャフト=シュール?
ちなみに「シュール」な演出といえば最近「花物語」の放映も記憶に新しいシャフトの存在があります。多くのシャフト作品はすでに視聴行為が別世界への入り口になるような、そんな画づくりですから、やはり本来の「シュルレアル(超現実)」とはちょっと外れることが多いです。ただし漫画原作の『それでも町は廻っている』はいい感じでした。
もともと慣れ親しんだ町を舞台にしているから、現実の延長線上に奇妙な出来事が起こるという感じが強いです。とくに第七話の「愛のナイトウ避行」に超現実感があります。これはAパートは原作一巻、Bパートは原作二巻のエピソードを一話放送分にまとめたものですが、テーマ的なまとまりがあり、かつ昼と夜というコントラストも生まれています。Aパートは主人公とその幼馴染がバスを乗り過ごして隣町に行って、見慣れない風景に出会う昼の話(「愛の逃避行」)。Bパートは栄養ドリンクを飲んで覚醒してしまった弟と主人公が夜の街を徘徊する話です(「ナイト・ウォーカー」)。(画像はAパートより)
↑ 露出過多 眠りも半覚醒への入り口(左)/広角レンズ特有の歪みを強調(右)
↑ 超クロースアップ 阿良々木くん?(左)/逆光 <物語>シリーズでよく見るポーズ(右)
以上、真夏とシュルレアリスムについてでした。
*1:『おおかみこども~』は前二作のようなジュヴィナイルではないので比較の対象外ということで