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読書の備忘、アニメの感想などを書いています

何が私を悲しくさせたのか―『凪のあすから』と『ゴールデンタイム』に弄ばれたジャンル的純情

毎週アニメを見ていますが、リアルタイム批評は難しいですね。

ツイッターくらいの短文の感想なら出てくるのですが、やはり全話視聴後の全体的な作品イメージから帰納しないと、コンセプチュアルな発想は出てきません。かといって短文や怪しい仮説だけで文章を書くのも難しい。

ということで、前クールのアニメについてテーマ的に感想を語りたいと思います。

今回のお題は「プラトニック・ラヴ」です。

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プラトン

 

●プラトニック・ラヴとは

私見ではロマンス*1というジャンルの条件には「プラトニック・ラヴの貫徹」があります。

ロマンスならロマンティックではないのかと思われるかもしれません。人文学的には定義がありそうな言葉ですが、極めて恣意的に違いを述べてみます。

 ロマンティック・ラヴとは現世的な恋愛感情です。一方プラトニック・ラヴとは形而上学的な結びつきです。つまりその恋愛が至上のものであることを指します。運命の愛、生まれ変わっても恋人、処女性、純潔(一生に一人の相手だから)――ちょっと思いつくキーワードを並べてみましたが、このようにプラトニックは、ロマンスというジャンルにおける正しい恋愛像。信仰や倫理に近いです。*2

 

●『凪あす』の比良平ちさき

凪のあすから』で心を痛めたのはチサキの「転向」でした。

チサキは主人公のヒカリの幼馴染で片想いという強力な物語属性を持っており、それが物語において語られるということで、プラトニック・ラヴの真剣度を強化しつづけていたわけです――いわゆる「一途」。しかし不条理な設定で、ウラシマ効果の犠牲者になってしまった。それでも通常ロマンスというジャンルにおいては、プラトニックは時空を超えるものです。たとえばループものを貫く原動力がそういった非合理的な意志です。そのようなコントラストとして、ウラシマ効果の間もプラトニック・ラヴを増幅させていたミウナの存在がありました。

 

第二期の後半部は彼女の心の行方がサスペンスフルでした。そして、不意打ち的にツムグがチサキに想いを告げるシーンは、ツムグの大胆な行動といい、カメラワークといい、けっこう劇的な演出でした。たしかに「俺の嫁」チサキがツムグに心移り(NTR?)したことが明らかになったときは驚いたのですが、その後考えたのは、「俺の」という信頼感や所有感が何に立脚していたかということでした。分かったのは結局、ロマンスという居心地よい形式に浸っていたということです。これ自体は悪いことではない。しかしジャンル的な心構えがなかった。『凪のあすから』は紋切り型のジャンルではなかった。そうして、ロマンスの物語においてプラトニック・ラヴが否定されたことにハートブレイクしたわけです。

でもそのような処女性の喪失は周到に用意されていた。たとえばチサキは「団地妻のようだ」などと言われたりして、グラマラスな肢体で、あたかも未亡人のように描かれていました。これについてはアニメーションの表現力もすごい。

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第24話 ツムグに告白された。家路につくと・・・

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桜が咲き、時間が過去に遡行する。

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ぽっ。高校入学時。

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↑ 光陰矢のごとし。「たった5年」というチサキの言葉通り、チサキがツムグを好きになってしまったことをほんの数十秒で雄弁に語ってしまう恐るべきシークエンス。

 

そうすると「たった5年」というチサキ自身の逡巡は、幼馴染神話の崩壊を受け入れられない、極めてジャンル言及的な背徳感ともとれます――「いままで私が至上の愛(プラトニック・ラヴ)だと思っていたものは正しい感情だったのか。」つまりロマンスの物語中のキャラクターであるチサキは、当然プラトニック・ラヴを奉じてたわけですが、その恋愛観が崩れようとしている。チサキの当惑は、いわばジャンルの枠組みをあぶり出す、恋愛倫理の問いともとれるのです。もちろん現実に当てはめるなら、これはミウナの父がヒカリの姉と結ばれたように、生の多様性を認める人間賛歌です。しかしそれがロマンスというジャンルでは裏切りになる

第二期で5年が経過したとき、登場人物と視聴者の間にもウラシマ効果が生じています。このとき相対的に子どもになった視聴者は、はたして大人になったチサキの行動を受け入れられるか――そう考えると、凪のあすから』は二期でロマンス批判に化けたといえるかもしれません。第一話のマナカとツムグの「運命の出会い」(@ヒカリ)という強烈なフラグをブチ折るかたちで物語は閉じたのですから。

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↑ ↓ 第一話より

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 ヒカリ「俺は見てしまったんだ。誰かが誰かと特別な出会いをした、その瞬間を」

 

と、まあ物語自体は、おじょしさまの伝説にしろ、ヒカリがショックを受けた「運命の出会い」にしろ、チサキが拘泥した幼馴染神話にしろ、そういったジャンル的な紋切り型の閉塞感や圧力を、登場人物たちが乗り越えていく、というポジティブな健全性が見出せそうです。ふつうそのような登場人物の一途な思いは、相愛か失恋に帰着します。どっちに行き着いても晴れ晴れしいのは「プラトニック・ラヴの貫徹」をするからです。しかしチサキに関しては相愛や失恋だけではなく、「転向」というかたちでプラトニック・ラヴの否定も描いている。これはちょっと不意打ちだったわけです。

 

●あえて清純派の茅野愛衣さん

そしてさらに同じ曜日に放映していた『ゴールデンタイム』がまたプラトニック・ラヴを揺るがしていた!

なんか主人公バンリのもう一人のプラトニック・ラヴの相手とも言っていいリンダに対して、そっとしておけばいいものを、最後の最後、最終回のエンドロールでミツオとの間にフラグを立てている!

まあこれ自体は心を痛めなかたのですが、そういえば<チサキ×ツムグ>も<リンダ×ミツオ>も<茅野愛衣×石川界人>という声優さんコンビだと気づいたら、なんか弄ばれた気分になったわけです。茅野さんの母性溢れる演技がやはり秀逸だったのでしょう。

 

 

●そもそもジャンル的お約束を侵犯していた

しかし良く考えるとこれらは大人の物語なのです。

 

たとえば『ゴールデンタイム』は大学が舞台です。通常ユースカルチャーの恋愛は(『とらドラ』が典型ですが)高校を舞台とすることが多く、そこで成就する恋愛は永劫に続きます。つまり高校でのロマンスはプラトニックに閉じるというのがジャンル的なお決まりなわけですが、『ゴールデンタイム』のカップルたちはそこで生じた問題を高校時代には解決できなかったわけです。そしてコウコとバンリの出逢いという、お互いの幼馴染神話を崩壊させるところから物語が始まる。つまりロマンスという大枠のジャンルの中ではありますが、一つのモードを否定しているわけです。ですから、なにか高校時代の恋人をスワッピングするような、潔癖とはいえない側面があるわけです。

 

凪のあすから』にしても脚本が『true tears』のプラトニック・ラヴ覇権争い*3で、視聴者を翻弄した岡田磨里さんですからいわずもがなです。今回は冬眠という設定を使い、ジャンル的なお約束である「同級生」を崩してきます。本来の同級生関係がずれて、ありえない同級生関係が生まれる。私感ですが、そこで露わになるのは男女の非対称性のような気がしました。たとえば男性のツムグには年少のマナカと同年のチサキというルートが用意されているのですが、女性のチサキは年少の男性になったヒカリを選べないので諦める、というような残酷な側面が露わになっていたような気がします。

 

ですから問題なのは(そして面白いのは)これらがロマンスというジャンル的な皮をかぶっている(そしてその境界線を揺さぶる)ことなのでしょう。

以上、ロマンスというジャンルのお約束について自己言及的なメタ・ロマンスとしての『凪のあすから』と『ゴールデンタイム』でした。

 

*1:この語も定義しなくちゃいけないのですが、語の選択自体にそれほど大きな意味はありません。「メロ・ドラマ」というジャンルだと枠組みが普遍的すぎるので、それと差異化したかっただけです。「アニメやラノベやマンガに類型的に描かれる恋愛のモード」程度の意味と捉えて下さい。

*2:たとえば「ビッチ」というスティグマは尻軽キャラというだけでなく、そのようなジャンル的恋愛観を犯したキャラへの告発です。

*3:「ボーイミーツガール」として物語の始まり女神であるノエと、物語以前の「幼馴染」神話の女神ヒロミとの、ヒロインの正統性をめぐる闘争!