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処女からの卒業―『純潔のマリア』見終わった

 

タイトルの「純潔」とは、実際にヒロインのマリアが「処女」であることを表しているのですが、案外ユニークな設定です。

簡単に言うとマリアが彼氏を見つけて幸せになるお話です。


一話目のマリアの、鳥山明的密度を持ったフィギュアは魅力的です。
石川雅之さんの原作の濃い描写が、アニメ仕様に中和されてます。困り眉もなかなか。

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マリアのデザインは、ほかの平均的な等身をもったリアリズム系の人間たちや、周囲の幼子たちとも違って、スペシャルな感がありました。

 

しかし、物語が進むと、上記のモブ的な造形のリアリズム系キャラにスポットライトが当たることが多くなってきて、どうやらマリアを中心とした群像劇であるということが分かってきます。それとともにマリアの作画の安定感も崩れ、見ていてうれしい感じが薄れてきたのは残念なところ。
ただこのような状況でキャラへのコミットメントを繋ぎとめるのも声優さんの役割だと考えると、金元寿子さんはよかった。
あと、良かったのはいじけやすい娘を演じた花澤香菜さんと世話焼きの魔女を演じた能登麻美子さんでした。
特に花澤さんは売れっ子なので、「ハマリ役」か「マンネリ」のどちらかになることが多いのですが、今回の役は新鮮味を感じました。

 

「純潔」について


ストーリーの観点では、「純潔」、つまり「処女性」というのがポイントでした。
本作での「処女性」とは、「非世俗」であるということです。必ずしも「非世俗」=「聖」ではないといとろがミソでしょうか。
というのもドラマツルギーの観点からは明らかにマリアは「聖」なる存在なのですが、物語内世界には「教会」が「聖」の正統性を持っているため、マリアは異端として描かれるからです。
この構図は「魔女マリア」と「聖母マリア」という形で対置されます。
ところが物語を通じて、教会の世俗性が明らかとなり、魔女マリアの聖性が浮かび上がってきます。

上記のように、倒錯したかたちで魔女=聖性が描写され、その聖性が純潔と結びついています。
そしてこの純潔を失うときが聖性の喪失、つまりマリアは処女を失うと魔力を失うという設定です。
物語終盤で実際に処女喪失未遂を経て、マリアは一時的に魔力を失います。この辺で純潔喪失のサスペンスが展開されます。

処女喪失がサスペンスとなるということは、処女喪失は視聴者の望むところではないということで、マリアが性交を行う描写はありませんし、受胎も処女懐胎というかたちで描写されています。
しかし驚くべきことにマリアが一介の町人と恋愛結婚を果たすことで、ドラマツルギー的にはあっさりと処女性が失われてしまうのでした。

ただし本作は純潔を「喪失」という観点ではなく、「卒業」というような大団円で描いています。しかしマリアが手に入れる小市民的な幸福のスケールの小ささは、深夜アニメのエンディングとしてはカタルシス不足でした。

 

 ヴァージニティについて

 

男性にも女性にも純潔、つまりヴァージニティはあります。
男性の「童貞」は自意識過剰の隠喩となることが多いですが、女性の「処女」は上記のような聖性の隠喩として展開されることが多いように思います。*1


もちろんそれらは男性の欲望に裏付けられているわけですが。おそらくこのもどかしさがもたらすカタルシスの極地がNTR(ネトラレ)なのかもしれません。

 

 

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同じ谷口悟朗監督作『コードギアス』の第22話「血染めのユフィ」。これも純潔喪失の好例。しかしこれはネクストステージ感の驚きがあった。

 

*1:筒井康隆の「七瀬三部作」の火田七瀬なんかはこの分野のアイドル