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読書の備忘、アニメの感想などを書いています

『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』(1)


『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』

気になるテーマがあったので『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』という論集を読みました。

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評

序論 「映像」をめぐる新たな言葉の獲得のために(渡邉大輔)

第一章  デジタル/ネットワーク映像の「思想」
「可塑性」が駆動するデジタル映像——「生命化」するビジュアルカルチャー(渡邉大輔)

第二章 「映画/史」の変貌
世界は情報ではない——濱口竜介試論(冨塚亮平)

三脚とは何だったのか——映画・映像入門書の二〇世紀(佐々木友輔)

スタジオジブリから「満洲」へ——日本アニメーションの歴史的想像力(渡邉大輔)

第三章 社会と切り結ぶ映像/イメージ
テレビCMとこれからの広告表現(蔓葉信博

防犯/監視カメラの映画史——風景から環境へ(海老原豊

第四章 ニューメディア/ポストメディウムのその先へ
拡張する「アニメ」——3DCGアニメ論(藤井義允)

ピクセル・ガーデンで、お散歩を——インディー・ゲームの美学(藤田直哉

第五章 科学とテクノロジーの地平
実験室化する世界—映像利用研究が導く社会システムの近未来(宮本道人)

第六章 ネットワークが生成する動画文化
野獣先輩は淫らな夢を見るか?——<真夏の夜の淫夢>概説(竹本竜都)

「ゲーム実況って何?」とか「何がおもろいの?」とか言ってる時代遅れのお前らに、バカでもわかるように解説してやるよ(飯田一史)

参照すべき映像・文献リスト

(ちなみに「序論」に書いてあるのですが、編者は興味の有る無しに関わらず、すべての論考に目を通して欲しいとのことなので、意欲的な方はどうぞ)

拡張する「アニメ」――3DCGアニメ論

「拡張する「アニメ」――3DCGアニメ論」を読みました。

内容

近年多くのアニメーションに3DCG表現が取り入れられている。
特徴的なのはセルルックが多いことである。(著者は氷川竜介と高畑勲の発言を引用するのみで、理由については考察していない。)
3DCGの流入によりアニメに起こった変化とは何か。

一つ目は、ゲーム的身体の獲得である。(「ゲーム的身体」とは何か。明確な定義はない。ご愛嬌である。)
ゲーム作品にも同様にセルルックの3DCGが使用されている。たとえば、『アイカツ』『プリティーリズム』。
上記に加え、『プリキュア』『ラブライブ!』のダンスパートなどを通じて「現在の日本のアニメは3DCGを取り込みセルルック調にし、ゲーム的身体の延長としてキャラクターを楽しむのに適した表現になってきている」。

二つ目は、対話性の獲得である。
ここでいう対話性とは「キャラクター同士、またはキャラクターと視聴者のコミュニケーションを楽しむものだ」。
具体例としては、『gdgd妖精s』『みならいディーバ』。
これらには「声優たちが起こす予測不可能な即興的対話を楽しむ構造」が共通している。

総じて、「日本のアニメは3DCGによって、物語性だけではない対話性という拡張を始めている」。
現代は「物語性より対話性が強くなった時代」である。批評もそれに自覚的にならなければならない。

感想

20pに満たない、おそらく本書では一番短い論考です。アニメに詳しくなくても読める軽い内容になってます。
何となく論旨(=3DCGがアニメに変化をもたらしている。批評も従来の方法論を変えるべきだ)はわかるのですが、いかんせん短いので変化の具体例(ゲーム的身体と対話性の獲得)に説得力がありません。
たとえば、ゲームとアニメがセルルック3DCGでリンクしたみたいな話があって、それとゲーム的身体の獲得の因果関係がよくわかりません。
そもそもゲーム的身体というのが分かりません。「ゲーム的身体の延長としてキャラクターを楽しむ」とは一体どういう感覚なのか。
あるいは、対話性の獲得の『gdgd妖精s』『みならいディーバ』ですが、これは(本書でも言及されていますが)石ダテコー太郎という特定のクリエイターのコンテンツなので、これをもって一般化にするには弱すぎるかと。
あと、最後で「対話性」の概念を「日常系」や「聖地巡礼」まで敷衍して、今まで例にあげた3DCGは一例にすぎず本当に言いたいことはアニメの拡張は時代の要請による必然なのだ、みたいな結論になり、論が拡張ならぬ拡散してしまった感がありました。笑

雑感

アニメというジャンルについて

gdgd妖精s』見たことなかったのですが、著者がラジオ的だとかバラエティのトーク的だとか評しているのを読んで、なぜこの作品が「アニメ」の枠で語られるのか不思議になりました。
むしろgdgd妖精s』をアニメというジャンルたらしめているものについて興味が沸きました。(声優の存在?放送枠の問題?)
これはアニメの「拡張」とは逆の話かもしれません。というのもジャンル横断的な作品を、あくまでアニメの枠で語ろうとする力学だからです。

3DCGについて

GW中に『アルスラーン戦記』とか『神撃のバハムート』(GENESISのほう。やっと見た。)見たせいもあるのですが、群衆の描写は3DCGで大きく変わったなあと思いました。
2Dアニメだと一枚絵で表現するので、原理的には群衆はマス(一つの塊)なのですが、3DCGだと別々の行動原理を持ったオブジェクトの集合として群衆が形成されるので、そもそも群衆という概念の扱い方に変化が生じたのだと思います。
それでも、以前少し見た『キングダム』の群衆の3DCGは浮いていて違和感(チープ感)があったと記憶しているのですが、上記2作品は結構アニメに馴染んで(セルルックして)いて感心しました。
3DCGで群衆表現のコストが下がって、大がかりな戦争シーンがある世界観の作品がテレビアニメ化されやすくもなっているのかと。
あと今書いていて思いましたが、2Dの質感を志向するセルルックは、リッチ感(=制作の手間暇と視聴時に感じる満足度の比例)を喚起しているのかも
(たとえば、実写で3DCGを使用するとき、できるだけ実写の質感に近づけることがハイバジェットであることを感じさせるのと同じように)

『教養としての10年代アニメ』

前置き

久々の更新です。 アニメは継続的に見てはいるのですが、あまり文章を書くインセンティブに繋がらないここ最近です。
内発的な動機を待つ、という一見自発的のようでいて実は受動的な態度を保っていたわけですが、GWに暇を持て余した挙句、最近出版されたアニメ関係の書籍を(主にアプトプットの体操を目的として)レビューしておこうと思い立った次第です。
一冊目は今年の2月に出版された『教養としての10年代アニメ』(ポプラ新書)です。
実はこの本、新刊で見かけたときに瞥見したのですが、“あ、現代思想の用語でサブカル作品を解説する系か”と了解して避けました。
しかしGWの魔に取りつかれた私は、"俺が書かなきゃ誰が書く"という悲壮なヒロイズムを胸に再度本書を手に取ることにしました。
果せるかな現代思想の用語でアニメ作品を解説する本”(あくまで私的なカテゴライズ)だったのですが。笑

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)


内容紹介というか感想

目次

<はじめに>
インフォテインメントとしてのアニメ/ジャンル批評とは/ホーリズムとしての一〇年代アニメ 等

<第1部 自己と他者>
第1章『魔法少女まどか☆マギカ』他者との自己同一化
ゼロ年代アニメの総決算/新房昭之の過去三作との関係/『ファウスト』からの引用と変更点/可能世界/イヌカレー空間1/絶望少女もの等

第2章『中二病でも恋がしたい!』自意識と他者の存在
氷菓』における掟破り/『響け!ユーフォニアム』の新基軸/『中二病でも恋がしたい!』はラブコメか/ゴシック精神と中二病

第3章『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。スクールカーストとぼっち
残念系/空気を読む/性善説性悪説/意識高い系/ライトノベルが描くリアリズム 等

<第2部 ゲームの世界>
第4章『ノーゲーム・ノーライフゲーム理論と社会適応
ファンタジーの世界/『ノゲノラ』に登場するゲーム/『ノゲノラ』とゲーム理論/コミュニケーション障と引きこもり 等

第5章『ソードアート・オンライン』オンラインゲームと一人称視点
MMORPG/浮遊城と世界樹/ナーヴギアの実現可能性/一人称視点/メタ・オリエンタリズム

<第3部 未来社会の行方>
第6章『とある科学の超電磁砲』クローン技術とスマートシティ
キャラクターとしての美琴の魅力/超能力を考える1/ヒトクローン個体/学園都市/スマートシティ/超監視社会 等

第7章『COPPELION』生き残りとリスク社会
遺伝子操作/コラテラル・ダメージ/リスク社会/ハードサヴァイヴ系/太陽の塔が意味するもの 等

<おわりに>
世間内存在としてのオタク/メタ視点を欠いた再帰性/ステップアップするオタク 等


本書の構成と前提

特定の作品を取り上げ、その作品をいろんな理論で解説するという構成です。
しかし、それを通して作品の魅力が語られるわけでもなく、かといって理論の解説も早足なので理論それ自体への興味も引きません。

ただし、注意深く読むと、「はじめに」でアニメを「教養(学問)で分析するに足るもの」として扱うと述べており、本書での作品評価はすべてそこに帰結するようです。
つまり、そもそもが“ある作品へ言葉では表しがたい魅力を感じる"→"理論で氷塊"というベクトルではなく、"学問的に一定の評価を得ている理論"→"ある作品にその理論が適用できる"というベクトルで、その"適用可能性"の多さが作品評価なのです 。

ですからたとえば、下記のような『まどマギ』の記述が成立します。

「さて『まどマギ』が優れている点は多々あるが、以下四点ほど指摘する」
1.「第一に物語の基本的要素であるプロットと複数のサブプロットが植物のツタのように密接に絡み合っている点である。」
2.「第二の特筆点は、ドイツを代表とする文豪ゲーテの詩劇『ファウスト』第一部の設定を見立て(あるいは借景)して活用したことである。」
3.「第三の注目は、『まどマギ』は可能世界、つまり現実世界は「複数の可能世界の一つ」という哲学や論理学の考えをベースにしている点である。」
4.「最後に、(引用者略)劇団イヌカレーのデザインワークスにも注目である。」

どうも私の論理では上記四点のいづれかの文章にも「~であるから、優れている」という因果関係が描けないので本書の前提で躓きました。
(たぶん本書的には正しくは"優れている点が多々ある"というよりも"(理論の適用可能性が)多々あるから優れている"ということなのでしょうが)
しかも受験現代文よろしく"言い換え"された結果、「優れている点」が「特筆点」「注目」などとパラフレーズされてなにがなにやら。

さらについていけないと思ったのは「第二の特筆点」で開陳される三段論法です。
1. 『まどマギ』は『ファウスト』第一部を見立てに使っている(「第二の特筆点」)
2. 『ファウスト』第一部はハッピーエンドではない
3. したがって『まどマギ』の結末を「ハッピーエンドとみる向きは誤読である」

と、ここも理解不能。

一点だけ(そして本書全体で)気づきがあったのは、『氷菓』に関する記述です。
フィルムスタディーズを援用して「一八〇度ルールを逸脱したショットが使われ、なおかつハイアングルや間ショットも多用されている」と指摘しているところで、これは私自身が『氷菓』に漠然と感じていた"日常ミステリなのに非日常間"を考えるのに興味深かったので、今度見るときに気にしてみようと思いました。


総じて

前置きで"現代思想の用語でサブカルを解説する本"と書きました。
こういう本によくありがちなのが、"この作品のここは、あの人が提唱しているあの理論に当てはまる"という論法で作品を持ち上げますね。
それら"当てはまる性"の多さ*1がその作品の強度や豊かさだといわんばかりに。*2
本書の"思想用語や批評理論詰め込みました"みたいな構成も、「大学の大衆化に配慮した教養主義の再興のこころみ」(「おわりに」)というように、学部生を相手にした大学の講義をもとにしている本書としては全うな、戦略的な語りだというのも理解できます。
ですが、単著として端的に魅力が無いのです。
著者はアニメを「インフォテインメント」*3と定義するのですが、本書自体がインフォテインメントとして読者をアニメへ誘う、というパフォーマンスがあってもよいか思うのですが、本書は娯楽(エンターテイメント)の観点は言わずもがな、情報(インフォメーション)の点でも(著者のサービス心なのでしょうが)総花的で地に足がついた感じがしませんでした。
(あと、参考文献はありますが、この手の本なら別で読書案内をつけて欲しいです。)


その他

中二病的・残念

メタな見立てをすると、本書が「学問」「教養」を取り扱うさまそれ自体が、「10年代」的であり、本書の概念で分析可能かもしれません。
これでもかと固有名や横文字が繰り出される様は、召喚魔法の呪文詠唱のようで中二病です。笑
(大学生を罹患させるという点で意図的なのかもしれませんが)
また、よく現代思想系の図書を揶揄するのに"頭が良くなったと思わせる本"という評がありますが、そういったサプリメントにすらならない"残念さ"(これも本書のキーワード!)も秘めている。


そういえば

プロフィールをみて気づきましたが、著者は以前取り上げた『声優論』の執筆者の一人でした。

*1:本書でよく出てくる言い回しに"これは○○の理論で分析可能"があります。

*2:これに対して"そういう論法は作品を理論に従属させている(貶めている)"という批判があります。

*3:情報(インフォメーション)+娯楽(エンターテイメント)。情報を得ることが娯楽となるようなコンテンツのことらしい。

巨大ロボットアニメと「切り返し」技法について ―『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』を読む

 

以前、『入門・現代ハリウッド映画講義』 で少し映画史の勉強――実写とアニメーションのアルケオロジーというエントリを書いたのですが、版元の人文書院さんよりエントリを紹介するツイートをいただいて、気を良くしたので、映画関連の書籍を勉強がてらちびちび紹介しようかと考えていました。
実は、上記の本でも言及されていて少し前に翻訳の出た『現代アメリカ映画研究』という本を積読しているのですが、未だ消化できずにいます。

 

現代アメリカ映画研究入門

現代アメリカ映画研究入門

 

 

で、『アルドノア・ゼロ』を見ていたら、以前に読んだ薄い映画学の本を思い出したので、再読がてらアニメ考察をしようかと思ったのですが、書きあぐねているうちに『アルドノア・ゼロ』も静かに、しかし駆け足で終わってしまいました。
でもせっかくなのでちょっと書いておきます。

 

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学

 

薄い映画学の本とはヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』です。一時期少し出ていた、若い読者をターゲットにしたみすず書房の「理想の教室」シリーズの一冊です。(ちなみに、著者の加藤幹郎さんは著名な学者さんで、京都学派というわけではないのでしょうが、『入門・現代ハリウッド映画講義』は加藤さんの門下の学者さんのお仕事でしょう。)

CineMagaziNet! no.12

 

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)

 

 

本のテーマは、ヒッチコック映画を通じた古典的ハリウッド映画の技法の解説と、その先を行くヒッチコックの映画的冒険を高く評価するものです。
題名にもなっている『裏窓』の分析が詳しいのですが、そこで「切り返し」という、あまりにも当たり前になっている技法の構造について考察していて啓発されます。

 

 

巨大ロボットアニメにおける切り返しの重要性

 

それで『アルドノア・ゼロ』がこの「切り返し」の構造に立脚しているというようなことを書こうと思いました。
もっというと、巨大ロボットアニメに「切り返し」が不可欠であるということ。
もっというと、やっぱりそれって『ガンダム』が発明したものなのではないかいうこと(考証的な裏付けは皆無ですが、ガンダム(富野)が発明した」というテンプレの醸すいかがわしさにはある種の誘惑を感じます)。

ということで、『アルドノア・ゼロ』を通じて語る必然性は、「旬」以外なかったわけですが、「巨大ロボットアニメにおける切り返しの重要性」について考えてみます。

まず「切り返し」について定義しておきましょう。
クロースアップの定着から切り返しの発生までが以下のように解説されています。

 

そしてこの「よりよく見ること」の偏執狂的表象としてのクロースアップ(ないしバスト・ショット)が、映画史が初期から古典期へと移行し終わる頃までに支配的なショット・サイズとして定着し、それとともに顔の接写に必然的にともなう眼差し(視線)の問題が浮上してきます。
おそくもと1908年には外面を「見ること」と内面を「見ること」とが結合するわけですから(外見と内実の一致)、おそくとも1920年頃までには人間どうしがたがいに顔を「見合わせる」ことで感情交流をする(親密な対話をする)様子を映画は得々と描くようになります。それは古典的ハリウッド映画に支配的な「切り返し」と呼ばれる編集法で、しばしば人物Bに視線を投げかける人物Aの顔のショット①と人物Aによて見られた人物Bの顔のショット②とがつなぎ合わされます。
このショット①②の二元的編集によって物理的にフラットな映画のスクリーンに親密な立体感があたえられます。この「切り返し」編集は今日なお世界中のスクリーンで数多く見られる技法です

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』より*1

 


ロボットアニメにおいてどうしてこの切り返しが重要かというと、それがロボットという無機物のレイヤーを透過して、人間ドラマのレイヤーを導入することができるからです。
たとえばロボット同士の画を切り返してもそこに感情を移入する要素がありません。しかし、ロボットの内側の人間同士を写してそれを切り返すことにより、ロボットの中の人間同士の対峙という多層的なレイヤーを表現することが出来ます

 

通常、登場人物AとBにおける切り返しでは両者は視線を交し合う距離間にいます。しかし、ロボットアニメの戦闘シーンにおけるAとBはそのような緊密な空間を共有しているわけではありません。ですからむしろ、切り返しの技法を使用することで両者のあいだに親密な(仮想的)空間が結ばれると考えるべきでしょう。

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『アルドノア・ゼロ』最終話の典型的なコックピット斜め45度での切り返し

 

 

ガンダム』における切り返し

 

ガンダムは、今日のロボットアニメに必要不可欠な、「ロボットをメディアとした本当のコミュニケーション」というスタイルを確立したのではないかと思われます。
つまり、お互いに顔も見えない肉体の接触のない人間同士が、ロボットの操縦をかわすことでお互いの「内面」をよりよく理解していくという、今日まで連綿と続くモードです。
ただし『ガンダム』では、その切り返しの間隔が限りなくゼロに近づいた時、つまりお互いの意識がシンクロする瞬間の悲劇まで描いているのは特異なことでしょう。
切り返しとはあくまで二つのショットをつないだ時に生まれる関係性ですから、一つのショット(一枚画)では表現しようがないのです。ララァアムロが意識を交流させるシークエンスには、切り返しを否定するようなショットが見られます。

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しかし『ガンダム』においては、切り返しの限界点でそれを乗り越えることが出来ない。ララァアムロが切り返しとは別次元のコミュニケーションを始めようとしたら、シャアが「俺も入れろ」と割って入ってきて、結局切り返しを繰り返してしまいます。

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ララァ、やつとの戯言はやめろ!」

 


この辺はロボットアニメというジャンルが確立した現代から見ると、ある種のアイロニーにも感じます。男同士の切り返しがなくしてロボットアニメは成立しない、と言われているような。

 

 

『アルドノア・ゼロ』における切り返し


翻って『アルドノア・ゼロ』はどうでしょう。
先の本では「切り返し」について以下のような記述もあります。

…そもそも古典的ハリウッド映画における観客とは主人公が見たものを見る存在ですから、主人公の確信は簡単に観客の確信へと変わります。古典的ハリウッド映画の代表的編集法に「切り返し」と呼ばれるものがあります。これは画面の外にそそがれる登場人物の視線とその視線がそそがれていた(であろう)対象とをつなぎ合わせるもので、「見る者」と「見られるもの」とを時空間的な近接性において関係づけ、二元論的に物語を紡ぐ方法です。問題は、そのときカメラの視線にすぎなかったものが登場人物の視線に読みかえられ、それがさらに観客の視線に重ねられることで、観客は登場人物が見たものを見るという特権的なポジションを獲得するということです。

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』より*2

 

 

『アルドノア・ゼロ』はある意味この古典的な認識の構造に忠実でした。
第二期から主人公の界塚伊奈帆がが手に入れる左目ですが、視覚以外の情報を解析できるその能力は、視覚を容易に欺ける物語内世界(外見と内実の乖離する世界)で、内実を見抜く特権的なポジションとして機能していました。

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不可視境界線が見えるという矛盾を受け入れることに疑問がないことについて


ちなみに本書ではエリック・ロメール監督の緑の光線という映画について面白い話があります。
緑の光線」とは太平洋が水平線の彼方にしずむ瞬間、気象条件によってごく稀に観察される(と言われる)光です。映画『緑の光線』のヒロインは、見ることのむずかしいこの「緑の光線」をいっしょに見ることのできた男性こそ、自分の真実の恋人だというロマンティックな幻想をいだいています。はたせるかな映画のエンディングで彼女はむなしくすごしたヴァカンスの最後に出逢った男性とともに、水平線にしずみゆく夕日に一瞬だけ「緑の光線」を見ることが出来ます。
しかし本書の著者は「わたしたち観客は本当にそれをみたのだろうか」「わたしたちはヒロインの欲望に素直に同化するあまり、それを彼女とともに見たと勘違いしているにすぎないのではないか」という謎を投げかけます。

重要なことは、映画というものが、古典的ハリウッド映画体制の創生(1917年頃)以来、あくまでも登場人物と観客のあいだに、なんらかの同一化をきずくように制度化された視覚装置であり、それゆえ登場人物の盲域は観客の盲域になるということです。つまりロメール映画のような現代映画においては、登場人物に見えていない(気づいていない)ものは観客にも見えない(気づかない)ままに終わり、登場人物が見たと思ったものは観客もまた見たと思い込むのです。言いかえれば、観客はしばしば登場人物の自己欺瞞に気づかぬまま、それを見逃してしまいます。

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』より

 

もちろん『中二病でも恋がしたい!』の「不可視境界線」が本当に存在したのかなどという無粋なことを言うつもりはありません。むしろメディアの特性として、上述の実写映画『緑の光線』とは違い、アニメやCGというものは「緑の光線」を存在させることができる、つまり「不可視」を「可視」化することができるという当たり前のことが、妙に興味深くなったということでした。これはもう「不可視境界線は本当に存在したのだろうか」などというインテリジェンスな問いは封じ込められてしまっていて、私たちは何気にそういう条件の中でアニメを見ているのです。

 

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*1:ちなみに本書の要諦はヒッチコックがそういった古典的技法脱構築しているというようなことなので、著者は以下のように文章を続けます。
しかし、この「切り返し」編集の欺瞞を最初に告発し、映画にまったく別のヴィジョンをあたえたのがヒッチコックなのです。つまり対象を「見ること」がしばしば対象を「愛すること」であるような関係が崩壊したとき、映画はどのような事態になるのかという問題についてヒッチコックは深い省察をくわえるのです。>

*2:ちなみに本書がスリリングなのは、ミステリーの作劇の問題ではなく映画史が積み上げた認識の問題として、『裏窓』から以下のようなミステリーを引き出しているからです。
映画という視覚的媒体の内部において主人公や観客が見た(と確信した)ものが、実はそうではなかったかもしれないという(あってはならないはずの)可能性。言いかえれば、中年夫婦のあいだには本当に殺人事件がもちあがったという客観的証拠などどこにもないにもかかわらず、誰もが事件はじっさいに起きたと思い込んでしまうことのほうが問題であるような映画、それが『裏窓』なのです。そしてこの奇妙な事態に、ほとんど誰も気をとめることもないまま今日にいたっているということを、わたしたちはミステリの問題というよりも、むしと映画史と認識の問題として引き受けなければならないはずです。