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『入門・現代ハリウッド映画講義』 で少し映画史の勉強――実写とアニメーションのアルケオロジー

 

入門・現代ハリウッド映画講義

入門・現代ハリウッド映画講義

 

 

以前読んだことがあったのですが、面白かった記憶があって、思うところがあり再読しました。

※エントリーに「実写とアニメのアルケオロジー」などという気障な副題をつけてみましたが、それに関しては一番下の「第四章 新しい身体と場所――映画史におけるロード・オブ・ザ・リング三部作」という項をご覧ください。

 

ハリウッド映画の批評の本はたくさんありますが、「現代ハリウッド」に関するアカデミックな収穫を入門者向けにまとめた本というのは、ありそうでない企画だと思います。良書だと思うのですが、知られてなさそうな地味な本です。

 

「入門」「講義」ということですが、実際は複数の執筆者の論文から成っているので「現代ハリウッド映画論集 初級編」といった趣なのですが、入門の読者向け に映画史の知見やキーワード集を補足したり、「です・ます」調で統一することで親しみやすさに配慮するど、「入門書」的なアレンジが施されてはいます。

 

●映画評とはちと違う言語

後で補足しますが、映画(史)に関するアカデミックな言説というのは「古典的ハリウッド映画*1スタジオ・システム*2プロダクション・コード*3などの概念を用いて分析するものなので、映画評やジャーナルな記事とは少し言語が違い、一般的に馴染みがありません。

 

●メタ映画:映画史について言及する映画という見立て

本書は、一つの論文につき(比較的新しめの)一本の作品を分析しながら、ハリウッド映画についての論点を学ぶという形式なので、見たことのある映画があれば、かなりとっつきやすいかと思います。

扱われているテーマと映画は以下の通りです。

第一章 経験の救出―「パニック映画」としてのワールド・トレード・センター

第二章 映画への回帰―マイノリティ・リポート再考

第三章 デジタル時代の柔らかい肌―スパイダーマンシリーズに見るCGと身体

第四章 新しい身体と場所―映画史におけるロード・オブ・ザ・リング三部作

第五章 キャメラの背後のイエロー・フェイス―ブロークバック・マウンテンにおける神話の打破と再生
第六章 「リメイク」映画とは何か―ガス・ヴァン・サント『サイコ』を中心に

付論 ホモエロティシズムを丸見えのまま隠す―デジタル・クローゼットとしてのDVD版ファイト・クラブ

 ちなみに第四章までが、「分析対象の作品自体が、過渡期にある自らの映画史的論点について自己言及している」という、メタ映画としての見立てを共通して描きだしており、私自身の好みもあって、その四章までを精読しました。

具体的に言うと、まず各論文冒頭で、映画史から見た現代ハリウッドの論点に言及し、それから作品分析に入ります。分析をしていると、いつしか冒頭で言及した映画史的な論点と作品の構造がオーヴァーラップしてくるという、けっこうプロット的にも面白いわけです。つまりあっけらかんとした娯楽作品だと思っていた映画が、自らの出自について語り出すわけです。

 

ざっと概観してみましょう。

 

●重要概念「古典的ハリウッド映画」について

まずは古典的ハリウッド映画の概念について本書に則し補足します。簡単に言うと古典的ハリウッド映画という概念が教えてくれるのは、いま私たちが当たり前のように見ていて意識しない劇映画のフォーマットは、ある時期に形成された歴史的・制度的なものである、ということです。*4具体的な作品群というよりは、「現代」の相対化を啓発するようなところがあると思います。

30年代にはプロダクション・コードがハリウッド映画に成立し、描いてはいけない項目が明文化され、それを遵守することが徹底されました。しかし、このコードはハリウッド映画を停滞させるどころか、ますます活気づけます。なぜなら、映画製作者たちは、コードに抵触しない演出を編み出したからです。制限の中でこそ、物語は<技法>は洗練された、とも言えるのです。(第四章より)

古典的ハリウッド映画」の主唱者たるボードウェルとトンプソンは、ブロックバスターを含めた現在のハリウッド映画を論じる際に、上記のような新たな枠組み(「ニュー・ハリウッド」あるいは「ポスト古典的~」:引用者註)を取り入れる必要はないと、繰り返し強調しています。CGやドルビーサウンドなどの新技術の導入によって、映画体験のスペクタクル化がいかに進行しようとも、複数のショットやサウンドをある一定の規則(180度ルール、ショット/リバースショット、アイライン・マッチなど)にもとづいて構成し、主人公たちをある一定のパターン(定義、再定義、妨害、達成)にそってゴールへと向かわせることで物語を先に進めるという、「古典的」な構造自体が破壊されるわけではないからです。

もちろん最近のハリウッド映画には、このような基本ルールを故意に逸脱する作品も数多く見受けられます。とはいえ、それがいまだに逸脱と感じられる限りにおいて、撮影/編集上のこうした約束事は「規範」として機能しているのであり、それゆにボードウェルとトンプソンは、今日のハリウッド映画を過去との断絶ではなく、連続において定義づけようとするのです。(第二章より)

 

●各章のまとめ

●第一章 経験の救出―「パニック映画」としてのワールド・トレード・センター

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パニック映画」(Disaster movie)という昔からあるジャンルについて、メロドラマとしての普遍的な側面がある一方で、その作られた時代の政治的な問題を反映するという歴史的な側面もあると指摘します。

たとえば、ニューディール期の1930年代には「現代アメリカ」のユートピアイメージの提示によって、大恐慌からの経済復興。冷戦期の1950年代は、テクノクラートの活躍がアメリカを救うSF。1970年代は市場利益を追求する資本家に対して、「普通人のヒーロー」の自己犠牲的な活躍を描く。

そして、98年をピークとする『ID4』『ツイスター』『ダンデス・ピーク』『タイタニック』『ボルケーノ』『アルマゲドン』『ディープインパクト』『ゴジラ』のような作品群においては、92年のLA暴動の影響があったといいます。一つはメディア報道が直接的に映画の表現技術にモードを作ったこと。

いわゆる古典的ハリウッド映画の、主要人物の視線や心理、アクションの直接的なつながりを重視する編集スタイルからは逸脱した、こうしたイヴェントの同時多発性、キャメラの偏在性、視点やショットの恣意的な飛躍などは、重大事件の発生時に、複数局のリアルタイム映像をザッピングするというニュース視聴体験に類似した効果を試みたものとみなすこともできるでしょう。

そしてもう一つはテーマ。LA暴動で顕在化した日常に潜む人種/民族間の不信や憎悪に対して、90年代パニック映画は非常時においてプライヴェートな関係が修復されたり、人種/民族だけでなくジェンダー、職業・階級、イデオロギー間の対立が融和される描写が多く描かれました。つまりLA暴動の映像的記憶を形式的に拝借しパニックのリアル演出に利用する一方、内容的にはLA暴動で顕在化した問題に対してメロドラマ的な解決を図ったのでした。

ところがこのようなパニック映画の楽天的な構造は、「まるでハリウッド映画のようだ」と言われた2001年の9.11同時多発テロによって、そのユートピア的想像力の終焉を迎えます

ここまでが映画史的な整理ですが、「9.11以後」のパニック映画として、具体的な映画『ワールド・トレードセンター』の作品分析に入ります。著者は「ジャンル映画が歴史を打ち負かしている」などと評されたように、批評的な評価の低かった本作の分析を通して、個人の経験間の断絶を安易にユートピア的な解決に落とし込まず、「9.11」の個別的経験を「テロとの戦い」に還元しようとする新たなタイプの想像力に陥ることを回避している、として再評価を与えています。

 

●第二章 映画への回帰――マイノリティ・リポート再考

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ポスト古典的ハリウッド映画」作家としてのスピルバーグについて。

この場合の「ポスト」とは断絶ではなく、自己言及的な身振りの特徴があること指します。つまり、自己の言及対象としての「古典主義」の存在を際立たせるということです。そしてまさに、主人公が映像を編集することを扱ったマイノリティ・リポートは映画にかんする自己言及を主題とした映画です。

分析では、物語内の管理社会において「見る」ことよりも「ある映像をある一定のコードにしたがって編集し、それを一つの『映画』として大衆の前に提示することのできる存在」のほうが優越的に描かれているということを明らかにします。そしてこれを、「デジタル革命」で映画の自立性の危機が叫ばれている時代におけるスピルバーグ自身の、映画救済プロジェクトであると指摘。

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一方でそのような振舞いが持つイデオロギー的な危うさにも目配せ。映画産業が危機的だった50年代に生まれた「フィルム・ノワール」というジャンルを使い、「デジタル時代」の編集技術を駆使した世界を描く『マイノリティ・リポート』は、「映画によって映画史を再記述」しているわけですが、一方で、それこそ映画史的な文脈によって、いわばハリウッド映画が映画の普遍性を語る権利を有しているかのような現状、それ自体も相対化する視点が必要だと説いています。

 

●第三章 デジタル時代の柔らかい肌――スパイダーマンシリーズに見るCGと身体

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本章はいきなり記号学者パースの「指標記号」(インデックス)という概念の説明から入るのですが、その理由があけすけで面白いです。それが映画批評家たちの存在意義を担保してくれる概念だということです。

映画を考えようとする者にとってなぜ指標性が重要な契機だったかというと、それは映画における特異性(=単独性)や遇有性、予測可能性といったものを、議論可能にするためだったといえます。もしも映画が完全にコントロール可能な表現媒体で、偶然の入り込む隙がまったくないものだとしたら、批評家や理論家の出る幕はなくなってしまうでしょう。 すべては作者に意図を説明してもらえば済む話となってしまい、画一的な見方しかありえなくなるからです。

 そして問題意識は明確です。「従来の映画批評家や映画理論家が譲れない一線としてきた指標性が、デジタル革命以後のハリウッド映画においてどのような運命をたどりつつあるのか」。扱うのは『スパイダーマン』『スパイダーマン2』です。生身の俳優がCGで描かれるスーツに包まれる、というスパイダーマンそものもが、CGに圧倒されつつある指標性の問題のアナロジーになっています。

歴史的に、2002年の『スパイダーマン』から『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』(ゴラムのデビュー)、『スター・ウォーズ エピソード2』『スパイダーマン2』『シュレック2』『スカイキャプテン』『ポーラー・エクスプレス』とCG技術を前面に押し出した作品が続いたことで、スパイダーマン』の成功がハリウッドのデジタル革命の大きな波を作ったといえます。

物語においては「スパイダーマン」と「ピーター」の葛藤が描かれます。もともと超人であるピーターが、いつしかスーツを着用することで超人化する変身ヒーローのように描かれることで、物語内容と映像面での主題が一致(=仮面と素顔の葛藤)することになります。つまり生身とCGの対立の構図が、ピーター自身の葛藤の物語を重ねながら、巧妙に画面上で展開されるのです。『スパイダーマン』ではピーターが仮面を引きうける決意をすることで幕を閉じますが、続く『2』に著者は注目します。

 

『2』では敵役が前作の全身CGに身を包んだグリーン・ゴブリンと異なり、CGとの半獣であり、CGで描かれたAIのアームに生かされているという設定です(「デジタ革命後のまだ死ねないでいる映画そのもののアレゴリーとしか思えないこのドック・オク」)。いわばこのハイブリッド性がテーマになっているわけです。暴走した列車を止めるシークェンスは、スーツが剥がれ素顔をさらけながらもスパイダーマンは乗客を救うことに成功します。つまり一作目にみられたような、「デジタル」「アナログ」の二項対立の先を行く、生身の身体とCGとの混淆物であることの肯定というテーマを導いています。

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↑ グリーン・ゴブリンとドック・オク

 

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↑ 列車のシーン

 

●第四章 新しい身体と場所――映画史におけるロード・オブ・ザ・リング三部作

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本章では、商業映画における特殊効果などの技術の歴史を掘り下げることで、とかく批判されがちな「イメージの優位」「可視性の過剰」といった問題についてメスを入れています。具体的には、CGの化け物である『ロード・オブ・ザ・リング 二つの塔』のゴラムに、いかに映画史的な文脈があるかということを明らかにしています。第三章がCGとの対話に、映画テクストそのものを用いたのに対し、本章はCG技術を歴史的正統性に位置付けることで対話を試みます。

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↑ ゴラムと、中の人(?)アンディ・サーキス

 

その根拠の一つは「アトラクションの映画」という概念です。それは、グリフィスらが劇映画の技法を洗練する以前には、物語を語らないアトラクションとしての映画が存在していて、それこそが現在の映像文化の出発点の一つであったという言説です。たとえばこれに則れば、視覚過剰や3D化などの現在の流行は映画の原始的な驚きや楽しみの復活であるともいえるのかもしれません。

対立するものとして、アンドレ・バザンや1995年に始まった映画運動「ドグマ95」などの実写主義の系譜も紹介しています。いわば人工的な演出を否定する、映画に対する「純潔」です。このような立場からはCGを使用した映画は到底認めることはできないということになります。こちらは三章の指標性擁護派の最右翼といったところでしょうか。

 

まず著者はゴラムが生みだすのに使われたモーション・キャプチャーに注目。俳優の身体の動きをもとにしているのだから、ゴラムのCGは現実との対応関係を失っているわけではないと指摘します。そしてモーション・キャプチャーの歴史的起源としてエティンヌ=ジュール・マレーの「幾何学的クロノフォトグラフィー」を引きます。あるいは同じようにシネマトグラフ以前のコンセプトが現代の技術で実現された例として、エドワード・マイブリッジの連続写真と超絶撮影技法「バレットタイム」(『マトリックス』で有名)との関係を挙げています。

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↑ サーキスとモーション・キャプチャー

 

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↑ マレーの幾何学的クロノフォトグラフィー

 

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↑ こちらはマレーのクロノフォトグラフィー

 

 

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↑ 『マトリックス』のバレットタイム

※この視覚感覚の再現はアニメでも試みられている

「ごちうさ」のバレットタイム表現と、その類似例 : GOMISTATION.gif

 

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↑ マイブリッジの連続写真(12台のカメラで1つの被写体を撮影)

 

また「アナログのモーション・キャプチャーであるともいえる」ロトスコープにも言及。ディズニーの『白雪姫』が有名ですが、1978年のアニメ版『指輪物語』でも使われた技法です。アニメーション以前に俳優の演技が存在していることがやはりモーション・キャプチャーと共通しています。

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↑ ロトスコープ 最近だとアニメ『悪の華

 

著者はこれらを「実写映像中心の映画史観においてはつねにないがしろにされてき」た実写映像とアニメ映像の混淆としての映像の系譜」と読んでいます。第三章ではバザンらの写真論から連続する映像論から、表現としてのCGについてデジタル/アナログの混淆がテーマになりましたが、本章は逆にバザンらのそういった実写主義を相対化しながら、技術としてのCGについて実写/アニメの混淆の歴史を発見している、という違いが興味深いところです。

 

*1:スタジオ・システムの元、ハリウッドで量産された支配的な映画を指す。その製作時期は、ほぼプロダクション・コードが機能していた時代と重なる。因果的・目的論的の方向づけられた物語を効率よく語ることを最重要視しており、技法の突出は抑制される。(本書「用語解説」より)

*2:広くは撮影所における合理主義的・機能的な映画の量産体制一般を指すが、狭義では、1920年代から1950年代のハリウッドを支えた垂直統合(大映画会社のよる製作・配給・興行の系列化)を主軸とする量産体制を指す。(同上)

*3:1930年代から60年代後半までハリウッドにおける映画製作を拘束した自主規制の規定。しばしば「映画製作倫理協定」と訳される。性や暴力などにまつわる避けるべき表現のリストからなる。(同上)

*4:たとえば「現代」を相対化するときに使う、歴史学での「近代」や、文学での「近代文学」に近いです。