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『声優論』―とりあえず企画で○

 

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

声優論 アニメを彩る女神たち:島本須美から雨宮天まで

 

 

(おそらく)先行研究の存在しない「声優論」の試みです。
主に4人の論者による声優に関する批評文が20本収録されています。

 

序論 声の現象学から声優論へ/小森健太朗
声優史概説/夏葉薫
第1章 島本須美日高のり子──八〇年代を象徴する二人の女神、それぞれの三〇年/遊井かなめ
第2章 島津冴子石原夏織──声に呼ばれるキャラクター、声が喚起するストーリー/遊井かなめ
第3章 林原めぐみ──アブジェクシオン装置としての綾波レイ/町口哲生
第4章 宮村優子雨宮天──ジェリコの壁はいかにして崩れるか?/遊井かなめ
第5章 川上とも子──生と死のあわいから天使の声が現れる/小森健太朗
第6章 桑島法子──ポストエヴァ時代精神/夏葉薫
第7章 堀江由衣田村ゆかり──神話の中の二人/夏葉薫
第8章 水樹奈々高山みなみ──歴史に咲いた二輪の花(ツヴアイ・ウイング)/遊井かなめ
第9章 釘宮理恵──釘宮病、発症したら出口なし/町口哲生
第10章 名塚佳織井口裕香──祈ること、求めること/夏葉薫
第11章 沢城みゆき──その声は、何を指し示すのか?/遊井かなめ
第12章 平野綾──ハイパーボリックなキャラクターと戯れて/町口哲生
第13章 広橋涼中原麻衣──〈ソラッカボイス〉と〈オタオタボイス〉/小森健太朗
第14章 喜多村英梨──数奇な運命と二つの傑作/夏葉薫
第15章 花澤香菜──三次的な声の文化におけるミューズ/町口哲生
第16章 井上麻里奈──井上麻里奈と〈空気系〉作品群の相性/小森健太朗
第17章 悠木碧──役を作らずして作るの境地/小森健太朗
第18章 阿澄佳奈──聖と魔が交錯するところ/小森健太朗
第19章 スフィア──声優ユニットの謎/夏葉薫
第20章 艦これ声優論──声の宝物庫(シソーラス)としての『艦これ』/深水黎一郎
あとがき 宮村優子論から声優論へ/遊井かなめ

 

■限定的な「声優」なのが良い 

取り上げられているのはベテラン~中堅までの声優さんたちです。
「声優論」といえど、対象は深夜アニメで活躍する(した)女性声優さんたちばかりす。(※ちなみに名前からはわかりにくいが、執筆者の遊井かなめ氏も夏葉薫氏も男性のようです。)
まあこのあたりが我が意を得たりだったので、楽しみにして読みました。
最初は上記の声優さんたちが真面目な論考の俎上に上がっているという冒険感にニヤニヤして読んでいたのですが、批評としての面白さがあるかというと微妙なところでした。
多くの文章が、声優のフィルモグラフィーから(紙幅の都合が大きいのでしょうが)割と恣意的に代表作をピックアップして、その声優の特性を解説しているような内容で、「ああこの論者はこのように素描するんだ」というような興味にはなるのですが、分析対象の声優へのクリティカルな考察に乏しかったです。対象読者を広くとっているからかもしれません。なんというか、CDについているライナーノーツを読んでいるような気分になりました。

とはいえ、企画としてはよくぞやってくれたと思います。繰り返しになりますが「声優論」の名のもとに、限定的なコミュニティでしか通用しない女性声優で固めたコンセプトは有難い。

 


■どのように分析するのか

声優を語る際の批評言語というのに興味があったのですが、やはりこれは難しいようです。
まず昨今のタレント化した声優を批評する際には複数の切り口があります。

とはいえ、まずは「演技」の分析が基本的なものでしょう。
本書における声優の演技への分析手法は大きく、文芸批評伝来の印象批評的なものと、音としての声へのやや専門的な分析に分けられます。
前者はたとえば、広橋涼の演技に対し、(代表主演作のヒロイン名「そら」と「ラッカ」から)「ソラッカボイス」なる作業仮説を立てて、「成長を志向する前向きさが込めれた声」「残念さやコメディをも内包している」「<初々しさ>を有している」などの特徴を上げるような分析手法に見られます。
後者は、これは本書の中で特に専門的な分析になりますが、深水黎一郎氏(ゲスト執筆的な存在)が行っている以下のような分析です。

さて、特に声優に詳しいわけではない筆者だが、声楽ならば自分でも多少齧ったことがあり、オペラ歌手を主人公にしたミステリーも何冊か書いている。そこでちょっと専門的に分析してみると、名取のあの脱力系のキャラクター(「えっ?本当に実戦?」「当たってくださ~い」)を表すために井口裕香が行っているのは、通常の頭声区の発声法――息を硬口蓋の裏に当てて頭蓋骨に響かせる――を避け、声門閉鎖を弱めて声から芯を抜き、息をなるべく拡散させて、漠然とした音の広がりを表現するというやり方である(本人に確かめたわけではないが、まず間違いない)。そしてこれは、残響の長い教会等で、ア・カペラ曲を歌う宗教合唱の発声法に非常に近い。本人は無意識にやっていると思われるが、名取のあの情けない声は、実は確かなテクニックに裏打ちされているのである。

 

■アイディア集

備忘がてら幾つかの章から、コンセプト的に面白かった内容を拾ってみます。

 

・声優史概説/夏葉薫
第一次~第三次声優ブームまでの流れをコンパクトにまとめています。

 

・第6章 桑島法子──ポストエヴァ時代精神/夏葉薫
2000年代初頭の桑島法子の活躍の背景に「ロボットアニメ・SFアニメのトップランナーであるべきサンライズが、《新世紀エヴァンゲリオン》をガイナックスに作られてしまったショック」があったと喝破。
桑島法子は《エヴァ》以降の時代を象徴する声優であり、その象徴性こそはサンライズBONESが必要としたものであった。
そして2003年以降の失速を、桑島に求められてきた、遅れてきた90年代の幕引きであり、新たな時代の始まりに繋がると結びます。

 

・第7章 堀江由衣田村ゆかり──神話の中の二人/夏葉薫
主題は二人の共演作の分析なのですが、この章の面白さは、どストレートに二人の声優をカップリングして論じていることに尽きます。
批評的野心よりも声優愛やファン心理を感じます。笑
養成所時代に同期だった二人の声優について、冒頭でキャリア組の堀江と、たたき上げの田村、のようなサクセスストーリーが素描されてます。

 

・第11章 沢城みゆき──その声は、何を指し示すのか?/遊井かなめ
沢城みゆきの活躍のフィルードの広さを、彼女のテレビアニメの出演作が20本を超えた2006年の時代性と結び付けて論じています。
つまり、youtubeやニコ動などのwebメディアの登場、DeNAモバゲータウン開設、深夜アニメの隆盛、射幸性を抑えたパチスロ五号機への完全移行(アニメとのタイアップ機の急増)、など、声優の声を耳にする<場>が日常的に増え始めた時代の声優業界の申し子としての沢城みゆき、というコンセプトを描き出しています。その声の「万能性」が、各々の消費者にとっての「ここ」を導くことができるのである、と。最後のダメ押しに2006年以降を象徴する存在としてAKB48を挙げ、《AKB0048》で沢城みゆきが、他ならぬ前田敦子を演じていることに触れています。

 

・第16章 井上麻里奈──井上麻里奈と〈空気系〉作品群の相性/小森健太朗
「この絵のうまさから、井上麻里奈の声優としての演技力や特性に結びつく論が立てられるだろうかと少し考えたが、画力と声優としての演技力が比例するという証拠はないので、この線を掘り下げるのは控えることにしておく」(小森健太朗

是非この主題ででっち上げて欲しかった。

 

・第17章 悠木碧──役を作らずして作るの境地/小森健太朗
「まどかの演技は、他の役者の演技を寄せ付けない超絶的な境地へと達していることを指摘しておきたい」(小森健太朗

絶賛ですね。 

 

・第18章 阿澄佳奈──聖と魔が交錯するところ/小森健太朗
「この手の、<うざかわいい>キャラクターを演じて当代の第一人者であるのが、本稿の主題の阿澄佳奈である」(小森健太朗

悠木碧は<聖>で、阿澄佳奈は<魔>の属性があるというコンセプトがあるようです。

 

・第19章 スフィア──声優ユニットの謎/夏葉薫
この章はエッセイのような内容ですが、ユーモア調で笑わせます。
声優ユニットは、果てしない謎だ」という一節から始まり、著者はすべて声優ユニットに関わる事象を「謎」であると頭を抱えます。
この堀江由衣周辺ユニットの諸事情というのも大きな謎だ。スフィアに入りたがり、黒薔薇保存会のような手作り感あふれるユニット活動も楽しむ彼女のユニット好きはどこから来たのか、そしてどこへ行くのか。」
声優ユニットとしては成功例といえるスフィアを取り上げるのですが、その声優としての実力を褒め上げたと思いきや、『夏色キセキ』のミスマッチを指摘し、以下の一節で文章を締めるのでした。
「《夏色キセキ》とスフィアは、共演者としての相性が声優ユニットとしての成功を決めるわけでもないというさらなる新たな謎を声優ユニットなるものに投げかけてくれたといえる。」

 

■その他

個人的に「第9章 釘宮理恵」あたりからフォローできると思ったのですが、声優さんたちの代表作とされるものが私の感覚とずれていることが明らかになりました。というのも、現在中堅~それ以上として活躍する声優さんたちの出世作ってゼロ年代の後半のものが多くて、当時のアニメってあまり見ていないのでした。
たとえば私のアニメ史の中では中原麻衣さんや広橋涼さんって『クラナド』から始まるのですが、本書ではご両人の代表作を『灰羽連盟』『カレイドスター』、『光と水のダフネ』『舞-HiME』と述べていて、へえ~と。

 

余談ですが、個人的に気になっているのは爬虫類系の可愛さのあるアイドル声優が多いということでしょうか。今『シドニアの騎士』やってますが、ああいう少し離れ目で丸顔の造形の声優さんって結構いる気がします。

 

 

「ロマンス」の条件 ―『ホールデンの肖像』から

以前の記事で、何気なく「ロマンス」という言葉を用いましたが、尾崎俊介『ホールデンの肖像 ペーパーバックからみるアメリカの読書文化』という、アメリカ文化についてのエッセイ集を読んでいたら、文学ジャンルとしての「ロマンス」に明確な定義を下しているくだりがあったので、備忘に。(せっかくなので本の紹介も兼ねまして)

 

 

ハーレクインロマンスと日本の少女漫画

本書では主に「ハーレクイン・ロマンス」の文化的側面に言及しています。ハーレクイン・ロマンスとはカナダの出版社のレーベル名ですが、もはや紋切り型の大衆文学ジャンルとして有名です。著者によればあらすじは大抵以下のようなもの。

 

そんな隠れベストセラーたるハーレクイン・ロマンスの人気の秘密を一言で言い表すならば、それは「大いなるワンパターンの魅力」ということに尽きる。誰もが振り返るほどの美人ではないけれど、見ようによっては可愛らしい、そんな元気いっぱいの若い女の子が、ふとしたきっかけから巨万の富を持ち、かつ大企業のトップでもある超美形のヒーローと関わりを持つことになり、始めのうちこそ喧嘩ばかりしているものの、いつしか互いに惹かれ合っていくというお決まりのストーリー展開。

 

日本だとまさに少女漫画のストーリー展開ですね。そしてその「ロマンス」の定義もまさに少女漫画的なものです。

 

ところで、今述べた類のシンデレラ・ストーリーにはポイントが三つある。「ヒロインの視点から物語が語られること」「ヒロインが内面の美しさによって肉体的・経済的・社会的な力に勝るヒーローの心を捉えること」、そして「ヒーローとの幸福な結婚により、ヒロインの社会的・経済的地位が上昇すること」。実はこの三つの条件こそ、いわゆる「ロマンス」なるものの決め手であり、これが揃うか揃わないかによって、それをロマンスと呼べるかどうかが決まってくる。

 

[第1巻 メロドラマ] パミラ、あるいは淑徳の報い (英国十八世紀文学叢書)

[第1巻 メロドラマ] パミラ、あるいは淑徳の報い (英国十八世紀文学叢書)

 
 
高慢と偏見〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

高慢と偏見〈上〉 (光文社古典新訳文庫)

 
ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫)

ジェイン・エア(上) (光文社古典新訳文庫)

 

 

ブリジット・ジョーンズの日記

ブリジット・ジョーンズの日記

 

 

 

もともとイギリスが発祥のロマンス小説ですが、カナダのハーレクイン社が協定を結び、北米で出版したところ大ヒット。アメリカとイギリスでは文化的な背景の違いはありますが、そのような差異を乗り越えて、アメリカでも大衆的な人気を獲得しました。

 

…1963年にアメリカ市場への参入を果たすと、それまでイギリス上流の上品なロマンスに触れる機会の少なかったアメリカの女性読者層の心を掴むことに見事成功…。アメリカには「セルフメイド・マン」(立志伝中の人)を重んじる伝統があって、ゼロからスタートして自らの努力で成功と富を勝ち取った男が尊敬されるお国柄のはずなのだが、そんなアメリカにおいてすら、ヒロインが生まれながらにしてリッチな貴族的ヒーローと出会って恋に落ちるシンデレラ・ストーリーに、多くの女性がときめいたのである。ロマンスの空想世界の中では「額に汗して得た金」よりも「先祖代々受け継いだ遺産」の方がものを言う。そんなイギリス流ロマンスの約束事は、アメリカにおいても通用したのだ。

 

上記のような普遍的大衆性を鑑みれば、極東の島国でも少女漫画というジャンルで全く同じ欲望装置が再生産されている現象は驚くに値しないのかもしれません。

 

パラノーマル≒新伝綺

ただし、比較文化的な面白さはやはりありまして、たとえば近年のアメリカでのヴァンパイア人気*1の背景に、「パラノーマル・ブーム」を指摘しています。これなども日本では、ゼロ年代講談社ファウストで提唱された「新伝綺の若者人気を連想させます。

 

ところでこのようなヴァンパイア・ブームは、それ自体として突発的に生じてきたものではなく、ほぼ同時期にアメリカで顕著になっていた「パラノーマル・ブーム」と同根のものであったと考えると理解しやすいとことがある。人間の能力を超えた何らかの特殊技能(魔法・変身・透視・時空移動・テレパシーなど)を持った者を主要登場人物に据えたファンタスティックな物語を一般に「パラノーマル・ストーリー」と呼ぶが、…

 

そのほかハーレクイン・ロマンスについてはフェミニズムとの微妙な関係なども系譜的に追っています。宇野常寛氏が『ゼロ年代の想像力』で男性の自浄的な美少女消費を批判して、「母性のディストピア」「レイプ・ファンタジー」といった言葉を使っていましたが、ハーレクイン・ロマンスに関しては、たとえば一部の言説で、ロマンスに耽溺する女性は実は母娘関係の融和を欲しているとか、安易なマチズモ批判ではない、女性読者目線の面白い言説が紹介されています。

 

アメリカのブッククラブ文化

あと、面白いのはアメリカのブッククラブ文化について扱っているところです。

会員の自宅へお勧め文学を月一で配送するBOMC(ブック・オブ・ザ・マンス・クラブ)、お茶の間の主婦に絶大な人気を誇るテレビ司会者オプラが番組内で主催するオプラズ・ブッククラブ、など。とくに後者の番組の影響力は大きく、アメリカでは地域ごとに有志の中年婦人たちが数人で読書会を行うことは当たり前に行われようになっているとのことです。

読書好きには素敵なお話ジェーン・オースティンの読書会』(映画版しか見ていませんが)の情景を思い出させますが、本書で著者が言及するところ、『ジェーン・オースティンの読書会』はかなりアメリカの市井のブッククラブの雰囲気を掴んでいるとのこと。ただし、女性が主体となる読書会ならではの傾向を次のように考察しています。

 

ところで、こうした近年流行の対面型ブッククラブにおいて重要なのは、本を読むことではない。…実は、女性主体のブッククラブにおけるディスカッションは、男性には想像のつかないもの、少なくとも男性が「ディスカッション」という言葉からは想像する行為とはまるで別物なのだ。

一般に男性がある文学作品について「ディスカッション」すると言えば、その作品のどこが良いのか悪いのか、何故良いのか悪いのかを議論することを意味するのであって、それはつまり作品の分析をすることに他ならない。ところが女性主体のブッククラブにおいて「ディスカッション」すると言った場合、作品の分析は基本的には行われない。では何について語り合うのかというと、作品にかこつけて、ブッククラブのメンバーの一人ひとりが自分のことを語るのである。

 

この辺は、批評癖の強い(=男性的な)オタクカルチャーとは一線を画すところでしょうか。ただ『ジェーン・オースティンの読書会』では(著者はSF作家でもあるので)、文芸好きの婦人たちの読書会にひょんなところからSF読みのギークが加わります。彼が文芸読みの女性にSFを読ませよう頑張るところは、異文化コミュニケーションのようで微笑ましいです。

 

 

*1:90年代前半のアン・ライス夜明けのヴァンパイア』(『インタヴュー・ウィズ・ヴァンパイア』の題名で)映画化から最近の『トワイライト』シリーズのメガヒットまで

さやわか『一〇年代文化論』 (星海社新書)

 

一〇年代文化論 (星海社新書)

一〇年代文化論 (星海社新書)

 

 

●キーワードは残念

題名の通り2010年代の文化論について、「残念」というキーワードがネガティブからポジティブな意味合いに変化しているという現象について分析しており、そういった感性を拾うことの重要性を説いています。

 

●なぜ今10年代文化論を書けるのか

まず2014年になぜ10年代文化論を総括するのかという疑問については、十年単位で区切る歴史観に対して、文化的な潮流というのはその区切りの三年前から準備されるうるというような、著者の文化史観があります。つまり、2010年代の文化を語る材料は2007年から出揃っているというわけです。

 

●「残念」の意味の変遷

「残念」という言葉の変遷については著者は次のように語っています。

まず、2006年から2009年までの時期、日本のインターネットには梅田望夫や岡崎将志のような人々が、あまり好ましいと感じない変化が起きていた。

それはニコニコ動画に代表とされるような、大人からしてみれば幼稚なナサブカルチャーが盛況を迎えてしまったことに象徴されており、彼らはそれを「残念」だと感じている。

しかし同じ時期、その「残念」な日本のインターネット上で、まさに「残念」という言葉の使われ方そのものが変化していった。人々は次第に「残念」という言葉を肯定的なニュアンスで使うようになったのだ。そしてGoogleの検索数に顕れているように「残念」という言葉の日常的な使用数じたいがゆっくりと増えていく。

 

梅田望夫たちから「残念」と呼ばれた人たちが担う、むしろ「残念」さを好む文化が、特に若年層を中心に日本では広がっている。というわけだ。

 

●しかし大事なのは社会の寛容性

具体的に初音ミク、『僕は友達が少ない』、Perfumeなどのコンテンツを分析しています。さらに秋葉原通り魔事件と黒子のバスケ脅迫事件を「残念」で分析し、前述したように、社会が「残念」に寛容であるべきだというメッセージを残しています。

 

あるいは、ひょっとしたら、いま日本の社会で起きている様々な課題について、「残念」の思想をもってすれば、より効果的に対処することだってできるかもしれない。つまり僕たちの社会が目をそむけたいと考えている問題について、それを日本にとって「残念」な部分だと思って受け入れるのだ。

それは決して、単に「残念」な部分を、ガマンして受け入れようということではない。我々の社会に「残念」な部分があることを見ないようにするのではなく、それを直視して、うまく運営していくべきなのではないか。

 

●感想

率直な感想としてそれほど面白く感じませんでした。「残念」に着目するというのは面白いのですが、分析が特に刺激的ではないし、情報量に優れているわけでもない。

前述した特定のコンテンツと「残念」について真面目に分析して、「文化論」を200ページの新書に纏めているのですが、もう少しボリューミーにして「残念」系コンテンツを論評しながら並べる「文化史」のような記述の方が説得力があったのではなかったかと思いました。あとライターを自認する人が情報整理役としてそのようなガイドブック的に使える本を執筆するということも、コンテンツが溢れている現代には意義のあることだと思います。

 

●ちなみに

星海社のサイトで著者のさやわか氏、東浩紀氏、海猫沢めろん氏とのトークショーの文字起こしが掲載されています。東氏がさやわか氏に突っ込んでいて、文化状況の総括としてはこっちの方が本書より分かりやすいです。

【さやわか×東浩紀×海猫沢めろん鼎談】「10年代の状況とコンテンツ」 - イベントレポート | ジセダイ