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宮森の可愛さとキャリアパスについて考える―『SHIROBAKO』見終わった

 安定した面白さで評判も良かった(と思われる)『SHIROBAKO』。
ブコメ要素皆無でありながら、しっかりとドラマの爽快さを味わわせてくれた良作でした。 

 

宮森のかわいさ

自分でも不思議だったのは、とくに萌えキャラでもない主人公の宮森がやけに可愛いと感じたこと。
プリン髪とか、深緑のカーディガンを着こなすファッションセンスとか、あの隙のある感じなのか。

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 wikipediaによれば、本作は<『花咲くいろは』に続く「働く女の子シリーズ」第2弾>という触れ込みです。『いろは』では主人公松前緒花が少女漫画的なギフトを授かっており、ジャンルとしてはロマンスといえる作風であったのに対し、『SHIROBAKO』の宮森あおいにはそういった特徴はなく、同じ「働く女の子シリーズ」ですが毛色が違います。

たしかに『いろは』の松前緒花も仕事を通じて成長をしていくのですが、しかし彼女の内面の優越性は、複雑な母子関係で鍛えられており、物語開始時にすでに確立されています。

一方、『SHIROBAKO』の宮森あおいは、ところどころそういった「主人公らしさ」(例えば大御所クリエイターを無邪気に口説けるところなど)を持ち合わせていますが、松前緒花ほどの意志の力や求心力はありません。

 

宮森―高校時代

そのような、主人公としてはいささか凡庸な宮森という人間を考えてみるに、実は高校性の時は周囲巻き込み型の部長として、主人公然とした活躍をしていたのかもしれません。*1
それが社会に出て大勢の中の一人になった。何かそういう背景を感じさせます。

宮森―キャリアパス

『SHIROBAKO』は主要5人のキャラクターがそれぞれ現実の壁にぶつかりながらも夢に一歩近づくという前向きなドラマです。
声優の卵のキャラクターに最終話手前で救いがあったところからも、意地の悪いリアリティよりも美化を選んでいます。

ところが、宮森のキャリアパスというものを考えたときに少し不明瞭なところがある。
たとえばアニメーターや声優はキャリアを積んで活躍するというキャリアパスが描かれていますし、脚本家志望のキャラはスペック高いから不安要素はない(むしろフリーランスとして活躍しそう)。 

興津という女性 

現実には活躍している女性のクリエイターはいますが、本作で描かれるのは制作進行から事務職に転向した興津という女性です。

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実は宮森にリアリティのあるのキャリアパスって興津さんなのでないか、と考えたときに、『SHIROBAKO』の別のリアリティが見えてくるような気がしました。
こちらのエントリーで興津さんについて考察がされていますが、たしかにぬいぐるみであったり、ドライビングテクニックであったりと、宮森と重なるところもあります。

本作では多くのキャラの「あの頃」が描かれますが、興津さんの制作進行時代には触れられていません。

 

宮森や矢野さんら、女性の制作進行のキャリアパス。実際のところどうなのでしょうか。

 

 

*1:結構ラノベ原作の学園ものとか見て驚くのは、社会に出て即戦力になりそうなスーパー高校生の多いこと。多いこと。(たとえば『さくら荘のペットな彼女
というかそういう社会に出るときに必要とされる能力に優位性が置かれている、と言う方が正確でしょう。もちろんその安易さゆえのラノベっぽさでもあります。

処女からの卒業―『純潔のマリア』見終わった

 

タイトルの「純潔」とは、実際にヒロインのマリアが「処女」であることを表しているのですが、案外ユニークな設定です。

簡単に言うとマリアが彼氏を見つけて幸せになるお話です。


一話目のマリアの、鳥山明的密度を持ったフィギュアは魅力的です。
石川雅之さんの原作の濃い描写が、アニメ仕様に中和されてます。困り眉もなかなか。

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マリアのデザインは、ほかの平均的な等身をもったリアリズム系の人間たちや、周囲の幼子たちとも違って、スペシャルな感がありました。

 

しかし、物語が進むと、上記のモブ的な造形のリアリズム系キャラにスポットライトが当たることが多くなってきて、どうやらマリアを中心とした群像劇であるということが分かってきます。それとともにマリアの作画の安定感も崩れ、見ていてうれしい感じが薄れてきたのは残念なところ。
ただこのような状況でキャラへのコミットメントを繋ぎとめるのも声優さんの役割だと考えると、金元寿子さんはよかった。
あと、良かったのはいじけやすい娘を演じた花澤香菜さんと世話焼きの魔女を演じた能登麻美子さんでした。
特に花澤さんは売れっ子なので、「ハマリ役」か「マンネリ」のどちらかになることが多いのですが、今回の役は新鮮味を感じました。

 

「純潔」について


ストーリーの観点では、「純潔」、つまり「処女性」というのがポイントでした。
本作での「処女性」とは、「非世俗」であるということです。必ずしも「非世俗」=「聖」ではないといとろがミソでしょうか。
というのもドラマツルギーの観点からは明らかにマリアは「聖」なる存在なのですが、物語内世界には「教会」が「聖」の正統性を持っているため、マリアは異端として描かれるからです。
この構図は「魔女マリア」と「聖母マリア」という形で対置されます。
ところが物語を通じて、教会の世俗性が明らかとなり、魔女マリアの聖性が浮かび上がってきます。

上記のように、倒錯したかたちで魔女=聖性が描写され、その聖性が純潔と結びついています。
そしてこの純潔を失うときが聖性の喪失、つまりマリアは処女を失うと魔力を失うという設定です。
物語終盤で実際に処女喪失未遂を経て、マリアは一時的に魔力を失います。この辺で純潔喪失のサスペンスが展開されます。

処女喪失がサスペンスとなるということは、処女喪失は視聴者の望むところではないということで、マリアが性交を行う描写はありませんし、受胎も処女懐胎というかたちで描写されています。
しかし驚くべきことにマリアが一介の町人と恋愛結婚を果たすことで、ドラマツルギー的にはあっさりと処女性が失われてしまうのでした。

ただし本作は純潔を「喪失」という観点ではなく、「卒業」というような大団円で描いています。しかしマリアが手に入れる小市民的な幸福のスケールの小ささは、深夜アニメのエンディングとしてはカタルシス不足でした。

 

 ヴァージニティについて

 

男性にも女性にも純潔、つまりヴァージニティはあります。
男性の「童貞」は自意識過剰の隠喩となることが多いですが、女性の「処女」は上記のような聖性の隠喩として展開されることが多いように思います。*1


もちろんそれらは男性の欲望に裏付けられているわけですが。おそらくこのもどかしさがもたらすカタルシスの極地がNTR(ネトラレ)なのかもしれません。

 

 

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同じ谷口悟朗監督作『コードギアス』の第22話「血染めのユフィ」。これも純潔喪失の好例。しかしこれはネクストステージ感の驚きがあった。

 

*1:筒井康隆の「七瀬三部作」の火田七瀬なんかはこの分野のアイドル

久々に見た『クラナド』の印象

久々に京都アニメーションの『クラナド』見てたんですけど、これって結構、後の『けいおん』につながるような表現あるんですね。

いわゆる「いたる絵」の顔面比率のインパクトが強かったのですが、再見でまた印象が変わりました。

 

なんというか、グラフティ調。

 

彩度を抑えた平面的な色使い、ルーズな輪郭線、脱力した身体性とか。

たとえば身体性は、なで肩で、少し猫背の体躯は臀部にかけて膨らんでいるのだけど、足首にかけてすぼんでいます。グラフティ調といえば「ポップ」という言葉が出てくるのだけど、むしろ「ヒップ」といいたくなるようなスタイルです。

 

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アニメの省略の技法については「記号化」ということはよく言われることですが、わたしは上記のグラフティ調的な省略がもたらす「ルーズ感」「脱力感」ともいえる表現は、作画の「簡略化」がもたらす経済的な貧しさの感がないので好きです。

とくに元のキャラデザインの力みが抜けていくタイミングが、『アフターストーリー』で主人公が学園ヤンキーから脱していく過程とうまく重なっていると思いました。連続して視聴するとキャラデザインがアニメの方に馴染んでいくような感覚があって、いい具合です。

なんか長期連載の漫画で作家の絵が洗練されていく感覚に近いです。

 

作画において「崩れ」とはネガティブな評価ですが、井上雄彦さんの『北斎漫画』的なマスコット化に通ずる、フリーハンドな「味」のある「崩れ」もを感じます。

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枝毛や眉毛を描線のみで表現している。フリーハンド感が出ています。

 

グラフティ調ということで言えば、アニメ『クレヨンしんちゃん』の表現を顧みる必要も感じます。子どものころに見た『劇場版クレヨンしんちゃん』ですが、あのシュールで不気味な世界観は、軟体動物のような骨格不在の身体性と動きにも支えられていたのだなあと。

湯浅政明さんのようなアニメーターを輩出していますしね。

 

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娘(渚)が大人の女性になってしまったことと、懐妊したことを同時に知ってしまい、悲喜の狭間で常軌を逸した古河家父の描写。クレしん感あります。

 

まあ、キャラを単位とした身体性で認識するのか、あるいはパースなどを考慮したレイアウトとして認識するのかというラインはあると思いますが。

 

 

 

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