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「デジタル・イメージの諸次元」―3DCG批判の思想的論拠とは

 

アニメは越境する (日本映画は生きている 第6巻)

アニメは越境する (日本映画は生きている 第6巻)

 

 岩波の映画叢書<日本映画は生きている>の一巻である『アニメは越境する』にマーク・スタインバーグ「デジタル・イメージの諸次元―『メトロポリス』と『巌窟王』におけるアニメ化された空間とイメージ―」という論文が収録されています。

 

メトロポリス』における2Dvs3D

要旨は、まずメトロポリス』(2001)を取り上げ、作品内における2Dと3DCGの対立軸を鮮明にします。『メトロポリス』では権力の中枢である高層ビルが3DCGで描かれ、一方でアンダーグラウンドであるスラム街は色彩豊かで緻密な、伝統的な背景画として描き分けられています。著者はここに、セルアニメ(2D)と、新技術である3DCGとのイデオロギーの対立図式を読みとります。権力をもつ体制側が3DCGで描写されていることが重要です。

・上の世界

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・下の世界

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しかし著者はもう一歩考察を進めます。つまり、『メトロポリス』は2Dのセルアニメの勝利を鮮やかに描き出してしまっていることで、逆に反動的なイデオロギーに陥っているということです。そこで取り上げるのが巌窟王』(2004)です。作中に見られるキャラたちの衣装の独特のテクスチャー(キャラクターの輪郭とは異なるレイヤーにある)の表現に、2Dそれ自体を異化する可能性を見出します。

 

3D批判の思想的論拠

とまあ論旨はこんな感じで、なんとなく2D対3Dの対立軸で、前者に人間性があり、それが革命的に後者を転覆するというストーリーも正当性がありそうだと感じやすいのですが、はてなぜアニメにおいて3DCGが悪者や異物扱いされるのかと考えてみると、よくわからない。

しかしここはさすが学術論文。3DCG批判の言説が援用されています。「ああ、一応こんなかんじの論拠があるのね」という感じです。思想用語による理論武装なので読みにくく、ちょっと長くなりますが参考までに引用しておきます。

1970年代に発達した映画的イメージによる遠近法的構成に向けられたある種の批判が過度に全体化されてきたように思われるのに対して、ジャン=ルイ・ボードリーやスティーヴン・ヒースのような書き手によって提起された議論は、私たちが3DCGIのイメージに取り組もうとするときに―少なからぬ数のアニメがアナログ方式で3DCGIのイメージを扱っているという理由から考察に値する。ボードリーやヒースやその他の人々は、伝統的な映画的空間によって、観客は「超越的主体」に、つまり映画的ドラマの不可視の参加者という位置に組み入れられるのだと論じてきた。デカルト的空間と透視図法―映画のように絵を描くこと―によって、観客は権力の、つまりボードリーが「「存在」の十全性(fullness)と同質性という理想的概念に相当する、ある全体的な視覚(a total vision)」と呼んだ、参加という幻想を与えられる。ヒースが述べているように、「映画のまなざしは、完璧なまなざしであり、場面の安定していて偏在的な管理は、映画という装置のおかげで、監督から観客に委ねられる」。しかし、この「全体的な視覚」は同時に、スクリーン上のイメージによって、主体をある種の管理に服従させている。この「偏在的な管理」は観客を統制してもいる。「遠近法システムによるイメージは、観客を場所に縛りつける」とヒースは記していて、さらにそれは、観客を、彼や彼女の前で展開されている場面に縫いとめ、文字通り観客を場面に、そしてイデオロギー的な立場とそれが前提としている欲望の法則に釘付けにしてしまう。これは重要な点である。遠近法的なイメージは、観客に誤った主権を授けてしまうだけでなく、観客を支配する管理のメカニズムとしても機能する。

三次元デジタルによるイメージ化はまた、それが映画と写真によるフォトリアリズムの伝統を保ち続ける限り―特にそれがスムーズな動きという快楽を現実的で三次元的な空間に提供しているときに、映画の観客に関するその原則を採用してしまう。そういうわけで、3Dコンピューターアニメによって制作されたイメージは、ボードリーやヒースによって輪郭を描かれた映画のイデオロギー的機能を十分に保証してしまう。3DCGIイメージの空間は、映画的リアリズムの助けを得ながら機能しているし、カメラの動きは超越的主体というだまし絵を維持しつつ、観客を集中した状態に引きこんでいく。これは同時に、一方では(「カメラ」が観客に超越的でデカルト的な主体の位置という快楽を与える限りにおいて)観客に幻想的な「権力を付与すること」であり、他方ではイメージの力(とそれが維持している社会秩序)について断定することである。