お楽しみはパジャマパーティーで

読書の備忘、アニメの感想などを書いています

「ですます調」雑感

 

近頃は熱心にアニメを見ます。もともとは実写映画の方は割と見る方だったのですが、押井守監督の言説に啓発されて、実写映画とアニメを往復するのが楽しくなりました。ただし今は、実写の方は理論や批評などのお勉強が多く、アニメの方は作品を見ることが多いです。

 

蓮實重彦の違和感

で、蓮實重彦さんの本を見繕っていたら、『映画はいかにして死ぬか』(1985)という、おそらくカルチャースクールの講義のようなものを書き起こした書のあとがきで、次のように述べられています。

啓蒙的な話し方で映画について語った文章を、活字にして読み返してみるのは奇妙な体験である。まず、執筆の孤独さが失われ、伝達への楽天的な意志があからさまにすべてを蔽いつくしているのはなんとも薄気味悪い。この薄気味悪さを映画の楽天性だとむりにも錯覚することで編まれたのが本書である。

 本書は「ですます調」で、蓮實さんのいつもの難解なエクルチュールとは打って変わって、とても「啓蒙的な話し方で映画について語っ」ています。「なんだ、書こうと思えば書けるじゃん」というのが一般読者の率直な感想でしょうが、蓮實さん自身からは「伝達への楽天的な意志」への微妙な嫌悪を感じます。この蓮實さん一流のエスプリはおそらく、翻訳可能性への素朴な信頼というか、言葉には情報がありその情報はどのようなメディアでも伝達可能である、というような目的論的・情報論的な読み方に対する牽制なのではないでしょうか。

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↑ 蓮實氏

 

●日本の翻訳文化の系譜

内田樹さんが『街場の文体論』という、これまた講義録である大変リーダブルな本で、「ブリッジ(架橋する)」という言葉を用い、日本特有の翻訳文化の伝統について指摘されています。内田さんが言うには、フランスなどではアカデミシャンが「入門書」を書くということは評価される業績ではないが、日本においては「日本文化が『外来のハイブラウな文化』と『土着の生活実感』の二重構造になっている」ために、両者をブリッジするという仕事を評価する文化的な文脈があるということです。これはおそらく明治初期の西洋思想の翻訳から、1980年代の浅田彰さんのチャート式『構造と力』や近年は仲正昌樹さんとか、ポピュラーなところでは池上彰さんとか、そういう名解説者の系譜もそこに含まれると思います*1言語間の翻訳だけでなく、分かりやすく咀嚼する、ということも翻訳であるということです。また、最近よく見るビジネス書の漫画版なども、日本人が得意とする現代の言語への一種の翻訳とも言えるかもしれません。

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↑ 内田氏

 

●「学問のすすめ」から受験産業まで自己啓発は連綿と

ともあれ、このような翻訳文化と「ですます調」は非常に密接な関係にあると思います。つまり何かを教授するのに適した文体であるとともに、何かを学ぶのに適した文体であるということです。私が思いだすのは語学春秋社の受験参考書「実況中継」シリーズでしょうか。wikipediaをみると80年代の後半から刊行されたようです。このシリーズはなんといっても、「ですます調」の語りかけてくるような親しみやすさが特徴でした。そして紙上を教室にしてしまうという発想。大衆化された教養主義です。そもそも受験産業というのが面白いもので、カリスマ講師が人生訓を説いたりして、自己啓発のような側面がありました。たとえば和田秀樹さんの『受験は要領』などの一連の著作も自己啓発のビジネス書のようなところがありました。

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↑ こちらは河合塾牧野剛氏。wikiによれば「予備校文化」論を構想中だという。

 

●目で聞き、耳から読む

少し話がそれましたが、文芸評論家の前田愛の『近代読者の成立』という本の中に「音読から黙読へ」という論文があります。これによれば、明治初期の読書は家族のいる居間などで音読をしていたのであり、今私たちが行っている個人的な黙読というスタイルが最初からあったわけではないようです。(手元に本がないためうろおぼえですが。)それで、「ですます調」というのを考えてみると、ちょうど黙読と音読の折衷のようなところがあります。つまり黙読ながらも、耳から知識を学ぶという原初的な経験に訴えるところがあります。講義録の多くが「ですます調」だというのも*2、単純な書き起こしの問題だけではなく、(教室のような共同体で)耳から聞くという体験を読ませるのに適したスタイルなのではないでしょうか。

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↑ 前田氏

 

●そして中村光夫から東浩紀まで

つまり「ですます調」は、ただ語尾を変えただけの丁寧語ではなく、「輸入」や「翻訳」そのものが文化となった近代以降の日本で発達した文体の一種だと考えることが出来そうです。谷崎潤一郎三島由紀夫の『文章読本』では、文芸批評家の中村光夫が自覚的に使い始めたと書いてあったような気がします*3。ここで冒頭の蓮實さんの発言に戻りますが、「ですます調」が文体であるがためにもたらす制約や力学というのが、「奇妙な体験」や「薄気味悪」さといった疑義に現われているように思います。そして昨今はこの「ですます調」の書籍というものが頻繁に見られるようになりました。興味深かったのは東浩紀さんが文芸評論集『セカイからもっと近くに』(2013)のまえがきで、連載の単行本化にあたっての改訂について次のように言及している事でした。

また、「だ・である」調だった原文を、すべて「です・ます」調に変更しています。この数年、ノンフィクションの書籍では急速に「です・ます」調が一般化し始めているように思うからです。

 中村光夫以来の伝統で言えば、「です・ます調」とは、一般大衆を啓発するのに適したナレーションであるとともに、明快な論理のためのディスコースでもあったのだと思います*4。読み手の作者に対する緊張を解かせることができ、書き手は「ですます」調の使用によって明快な伝達を要請されるからです。

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↑ 中村光夫氏(左)と東氏(右)

 

一方、近年の動向は少し事情が違うと思います。活字離れが叫ばれる中、「です・ます調」には、まず書籍を手に取りやすくするという利点があるでしょう。それは、「だ・である」調の書き言葉そのものに対するアレルギーの処方箋として、親しみやすいインターフェイスとして機能している*5ということです*6。次に情報をイン/アウトプットしやすいという利点があります。情報が単純化されていて軽いので共有も容易です。たしかに口述書き起こしの粗悪製造も多いと思います。しかし翻訳文化の啓発的な歴史を考えれば、情報化時代への正統な適応なのかなあとも考えてしまうのでした。

 

※ちなみに私が本ブログで「ですます」を使用するのは、読み手への親しみやすさを演出したいのとともに、「ですます」を使用することで論理明快な文章を書くことも自分自身に課したいからですが、やはり難しいです。

 

 

*1:翻訳者は解説者というのは、まさに「訳者解説」

*2:たとえば外国語の翻訳でもそれは再現されます

*3:原稿の文字数を水増しするためだったという逸話があります。

*4:だからこそ小説(とくに三人称)とは相性が良くありません。

*5:ちなみに「です・ます調」ではないかたちで、口語体の文章を成功させたのは橋本治さんでしょうか。通常批評家は、漢語か横文字に圧縮された概念を駆使しますが、橋本さんは概念を解凍して、構文のかたちで「」で括って提示します。まあそれゆえに冗長で間テクスト性が弱い部分もあるような気がしますが。あとは口語体といえば山形浩生さんの翻訳の仕事もユニークです。

*6:ちなみに、もともと論理明快な文章志向の強い欧米の教科書などの翻訳に「です・ます調」を導入するのは、相性がいいと思います