『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』(1)
『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』
気になるテーマがあったので『ビジュアル・コミュニケーション――動画時代の文化批評』という論集を読みました。
- 作者: 限界研,飯田一史,海老原豊,佐々木友輔,竹本竜都,蔓葉信博,冨塚亮平,藤井義允,藤田直哉,宮本道人,渡邉大輔
- 出版社/メーカー: 南雲堂
- 発売日: 2015/09/30
- メディア: 単行本(ソフトカバー)
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序論 「映像」をめぐる新たな言葉の獲得のために(渡邉大輔)
第一章 デジタル/ネットワーク映像の「思想」
「可塑性」が駆動するデジタル映像——「生命化」するビジュアルカルチャー(渡邉大輔)第二章 「映画/史」の変貌
世界は情報ではない——濱口竜介試論(冨塚亮平)三脚とは何だったのか——映画・映像入門書の二〇世紀(佐々木友輔)
スタジオジブリから「満洲」へ——日本アニメーションの歴史的想像力(渡邉大輔)
第三章 社会と切り結ぶ映像/イメージ
テレビCMとこれからの広告表現(蔓葉信博)防犯/監視カメラの映画史——風景から環境へ(海老原豊)
第四章 ニューメディア/ポストメディウムのその先へ
拡張する「アニメ」——3DCGアニメ論(藤井義允)ピクセル・ガーデンで、お散歩を——インディー・ゲームの美学(藤田直哉)
第五章 科学とテクノロジーの地平
実験室化する世界—映像利用研究が導く社会システムの近未来(宮本道人)第六章 ネットワークが生成する動画文化
野獣先輩は淫らな夢を見るか?——<真夏の夜の淫夢>概説(竹本竜都)「ゲーム実況って何?」とか「何がおもろいの?」とか言ってる時代遅れのお前らに、バカでもわかるように解説してやるよ(飯田一史)
参照すべき映像・文献リスト
(ちなみに「序論」に書いてあるのですが、編者は興味の有る無しに関わらず、すべての論考に目を通して欲しいとのことなので、意欲的な方はどうぞ)
拡張する「アニメ」――3DCGアニメ論
「拡張する「アニメ」――3DCGアニメ論」を読みました。
内容
近年多くのアニメーションに3DCG表現が取り入れられている。
特徴的なのはセルルックが多いことである。(著者は氷川竜介と高畑勲の発言を引用するのみで、理由については考察していない。)
3DCGの流入によりアニメに起こった変化とは何か。
一つ目は、ゲーム的身体の獲得である。(「ゲーム的身体」とは何か。明確な定義はない。ご愛嬌である。)
ゲーム作品にも同様にセルルックの3DCGが使用されている。たとえば、『アイカツ』『プリティーリズム』。
上記に加え、『プリキュア』『ラブライブ!』のダンスパートなどを通じて「現在の日本のアニメは3DCGを取り込みセルルック調にし、ゲーム的身体の延長としてキャラクターを楽しむのに適した表現になってきている」。
二つ目は、対話性の獲得である。
ここでいう対話性とは「キャラクター同士、またはキャラクターと視聴者のコミュニケーションを楽しむものだ」。
具体例としては、『gdgd妖精s』『みならいディーバ』。
これらには「声優たちが起こす予測不可能な即興的対話を楽しむ構造」が共通している。
総じて、「日本のアニメは3DCGによって、物語性だけではない対話性という拡張を始めている」。
現代は「物語性より対話性が強くなった時代」である。批評もそれに自覚的にならなければならない。
感想
20pに満たない、おそらく本書では一番短い論考です。アニメに詳しくなくても読める軽い内容になってます。
何となく論旨(=3DCGがアニメに変化をもたらしている。批評も従来の方法論を変えるべきだ)はわかるのですが、いかんせん短いので変化の具体例(ゲーム的身体と対話性の獲得)に説得力がありません。
たとえば、ゲームとアニメがセルルック3DCGでリンクしたみたいな話があって、それとゲーム的身体の獲得の因果関係がよくわかりません。
そもそもゲーム的身体というのが分かりません。「ゲーム的身体の延長としてキャラクターを楽しむ」とは一体どういう感覚なのか。
あるいは、対話性の獲得の『gdgd妖精s』『みならいディーバ』ですが、これは(本書でも言及されていますが)石ダテコー太郎という特定のクリエイターのコンテンツなので、これをもって一般化にするには弱すぎるかと。
あと、最後で「対話性」の概念を「日常系」や「聖地巡礼」まで敷衍して、今まで例にあげた3DCGは一例にすぎず本当に言いたいことはアニメの拡張は時代の要請による必然なのだ、みたいな結論になり、論が拡張ならぬ拡散してしまった感がありました。笑
雑感
アニメというジャンルについて
『gdgd妖精s』見たことなかったのですが、著者がラジオ的だとかバラエティのトーク的だとか評しているのを読んで、なぜこの作品が「アニメ」の枠で語られるのか不思議になりました。
むしろ『gdgd妖精s』をアニメというジャンルたらしめているものについて興味が沸きました。(声優の存在?放送枠の問題?)
これはアニメの「拡張」とは逆の話かもしれません。というのもジャンル横断的な作品を、あくまでアニメの枠で語ろうとする力学だからです。
3DCGについて
GW中に『アルスラーン戦記』とか『神撃のバハムート』(GENESISのほう。やっと見た。)見たせいもあるのですが、群衆の描写は3DCGで大きく変わったなあと思いました。
2Dアニメだと一枚絵で表現するので、原理的には群衆はマス(一つの塊)なのですが、3DCGだと別々の行動原理を持ったオブジェクトの集合として群衆が形成されるので、そもそも群衆という概念の扱い方に変化が生じたのだと思います。
それでも、以前少し見た『キングダム』の群衆の3DCGは浮いていて違和感(チープ感)があったと記憶しているのですが、上記2作品は結構アニメに馴染んで(セルルックして)いて感心しました。
3DCGで群衆表現のコストが下がって、大がかりな戦争シーンがある世界観の作品がテレビアニメ化されやすくもなっているのかと。
あと今書いていて思いましたが、2Dの質感を志向するセルルックは、リッチ感(=制作の手間暇と視聴時に感じる満足度の比例)を喚起しているのかも。
(たとえば、実写で3DCGを使用するとき、できるだけ実写の質感に近づけることがハイバジェットであることを感じさせるのと同じように)