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読書の備忘、アニメの感想などを書いています

『教養としての10年代アニメ』

前置き

久々の更新です。 アニメは継続的に見てはいるのですが、あまり文章を書くインセンティブに繋がらないここ最近です。
内発的な動機を待つ、という一見自発的のようでいて実は受動的な態度を保っていたわけですが、GWに暇を持て余した挙句、最近出版されたアニメ関係の書籍を(主にアプトプットの体操を目的として)レビューしておこうと思い立った次第です。
一冊目は今年の2月に出版された『教養としての10年代アニメ』(ポプラ新書)です。
実はこの本、新刊で見かけたときに瞥見したのですが、“あ、現代思想の用語でサブカル作品を解説する系か”と了解して避けました。
しかしGWの魔に取りつかれた私は、"俺が書かなきゃ誰が書く"という悲壮なヒロイズムを胸に再度本書を手に取ることにしました。
果せるかな現代思想の用語でアニメ作品を解説する本”(あくまで私的なカテゴライズ)だったのですが。笑

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)

(117)教養としての10年代アニメ (ポプラ新書)


内容紹介というか感想

目次

<はじめに>
インフォテインメントとしてのアニメ/ジャンル批評とは/ホーリズムとしての一〇年代アニメ 等

<第1部 自己と他者>
第1章『魔法少女まどか☆マギカ』他者との自己同一化
ゼロ年代アニメの総決算/新房昭之の過去三作との関係/『ファウスト』からの引用と変更点/可能世界/イヌカレー空間1/絶望少女もの等

第2章『中二病でも恋がしたい!』自意識と他者の存在
氷菓』における掟破り/『響け!ユーフォニアム』の新基軸/『中二病でも恋がしたい!』はラブコメか/ゴシック精神と中二病

第3章『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。スクールカーストとぼっち
残念系/空気を読む/性善説性悪説/意識高い系/ライトノベルが描くリアリズム 等

<第2部 ゲームの世界>
第4章『ノーゲーム・ノーライフゲーム理論と社会適応
ファンタジーの世界/『ノゲノラ』に登場するゲーム/『ノゲノラ』とゲーム理論/コミュニケーション障と引きこもり 等

第5章『ソードアート・オンライン』オンラインゲームと一人称視点
MMORPG/浮遊城と世界樹/ナーヴギアの実現可能性/一人称視点/メタ・オリエンタリズム

<第3部 未来社会の行方>
第6章『とある科学の超電磁砲』クローン技術とスマートシティ
キャラクターとしての美琴の魅力/超能力を考える1/ヒトクローン個体/学園都市/スマートシティ/超監視社会 等

第7章『COPPELION』生き残りとリスク社会
遺伝子操作/コラテラル・ダメージ/リスク社会/ハードサヴァイヴ系/太陽の塔が意味するもの 等

<おわりに>
世間内存在としてのオタク/メタ視点を欠いた再帰性/ステップアップするオタク 等


本書の構成と前提

特定の作品を取り上げ、その作品をいろんな理論で解説するという構成です。
しかし、それを通して作品の魅力が語られるわけでもなく、かといって理論の解説も早足なので理論それ自体への興味も引きません。

ただし、注意深く読むと、「はじめに」でアニメを「教養(学問)で分析するに足るもの」として扱うと述べており、本書での作品評価はすべてそこに帰結するようです。
つまり、そもそもが“ある作品へ言葉では表しがたい魅力を感じる"→"理論で氷塊"というベクトルではなく、"学問的に一定の評価を得ている理論"→"ある作品にその理論が適用できる"というベクトルで、その"適用可能性"の多さが作品評価なのです 。

ですからたとえば、下記のような『まどマギ』の記述が成立します。

「さて『まどマギ』が優れている点は多々あるが、以下四点ほど指摘する」
1.「第一に物語の基本的要素であるプロットと複数のサブプロットが植物のツタのように密接に絡み合っている点である。」
2.「第二の特筆点は、ドイツを代表とする文豪ゲーテの詩劇『ファウスト』第一部の設定を見立て(あるいは借景)して活用したことである。」
3.「第三の注目は、『まどマギ』は可能世界、つまり現実世界は「複数の可能世界の一つ」という哲学や論理学の考えをベースにしている点である。」
4.「最後に、(引用者略)劇団イヌカレーのデザインワークスにも注目である。」

どうも私の論理では上記四点のいづれかの文章にも「~であるから、優れている」という因果関係が描けないので本書の前提で躓きました。
(たぶん本書的には正しくは"優れている点が多々ある"というよりも"(理論の適用可能性が)多々あるから優れている"ということなのでしょうが)
しかも受験現代文よろしく"言い換え"された結果、「優れている点」が「特筆点」「注目」などとパラフレーズされてなにがなにやら。

さらについていけないと思ったのは「第二の特筆点」で開陳される三段論法です。
1. 『まどマギ』は『ファウスト』第一部を見立てに使っている(「第二の特筆点」)
2. 『ファウスト』第一部はハッピーエンドではない
3. したがって『まどマギ』の結末を「ハッピーエンドとみる向きは誤読である」

と、ここも理解不能。

一点だけ(そして本書全体で)気づきがあったのは、『氷菓』に関する記述です。
フィルムスタディーズを援用して「一八〇度ルールを逸脱したショットが使われ、なおかつハイアングルや間ショットも多用されている」と指摘しているところで、これは私自身が『氷菓』に漠然と感じていた"日常ミステリなのに非日常間"を考えるのに興味深かったので、今度見るときに気にしてみようと思いました。


総じて

前置きで"現代思想の用語でサブカルを解説する本"と書きました。
こういう本によくありがちなのが、"この作品のここは、あの人が提唱しているあの理論に当てはまる"という論法で作品を持ち上げますね。
それら"当てはまる性"の多さ*1がその作品の強度や豊かさだといわんばかりに。*2
本書の"思想用語や批評理論詰め込みました"みたいな構成も、「大学の大衆化に配慮した教養主義の再興のこころみ」(「おわりに」)というように、学部生を相手にした大学の講義をもとにしている本書としては全うな、戦略的な語りだというのも理解できます。
ですが、単著として端的に魅力が無いのです。
著者はアニメを「インフォテインメント」*3と定義するのですが、本書自体がインフォテインメントとして読者をアニメへ誘う、というパフォーマンスがあってもよいか思うのですが、本書は娯楽(エンターテイメント)の観点は言わずもがな、情報(インフォメーション)の点でも(著者のサービス心なのでしょうが)総花的で地に足がついた感じがしませんでした。
(あと、参考文献はありますが、この手の本なら別で読書案内をつけて欲しいです。)


その他

中二病的・残念

メタな見立てをすると、本書が「学問」「教養」を取り扱うさまそれ自体が、「10年代」的であり、本書の概念で分析可能かもしれません。
これでもかと固有名や横文字が繰り出される様は、召喚魔法の呪文詠唱のようで中二病です。笑
(大学生を罹患させるという点で意図的なのかもしれませんが)
また、よく現代思想系の図書を揶揄するのに"頭が良くなったと思わせる本"という評がありますが、そういったサプリメントにすらならない"残念さ"(これも本書のキーワード!)も秘めている。


そういえば

プロフィールをみて気づきましたが、著者は以前取り上げた『声優論』の執筆者の一人でした。

*1:本書でよく出てくる言い回しに"これは○○の理論で分析可能"があります。

*2:これに対して"そういう論法は作品を理論に従属させている(貶めている)"という批判があります。

*3:情報(インフォメーション)+娯楽(エンターテイメント)。情報を得ることが娯楽となるようなコンテンツのことらしい。