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巨大ロボットアニメと「切り返し」技法について ―『ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』を読む

 

以前、『入門・現代ハリウッド映画講義』 で少し映画史の勉強――実写とアニメーションのアルケオロジーというエントリを書いたのですが、版元の人文書院さんよりエントリを紹介するツイートをいただいて、気を良くしたので、映画関連の書籍を勉強がてらちびちび紹介しようかと考えていました。
実は、上記の本でも言及されていて少し前に翻訳の出た『現代アメリカ映画研究』という本を積読しているのですが、未だ消化できずにいます。

 

現代アメリカ映画研究入門

現代アメリカ映画研究入門

 

 

で、『アルドノア・ゼロ』を見ていたら、以前に読んだ薄い映画学の本を思い出したので、再読がてらアニメ考察をしようかと思ったのですが、書きあぐねているうちに『アルドノア・ゼロ』も静かに、しかし駆け足で終わってしまいました。
でもせっかくなのでちょっと書いておきます。

 

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学

 

薄い映画学の本とはヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』です。一時期少し出ていた、若い読者をターゲットにしたみすず書房の「理想の教室」シリーズの一冊です。(ちなみに、著者の加藤幹郎さんは著名な学者さんで、京都学派というわけではないのでしょうが、『入門・現代ハリウッド映画講義』は加藤さんの門下の学者さんのお仕事でしょう。)

CineMagaziNet! no.12

 

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学 (理想の教室)

 

 

本のテーマは、ヒッチコック映画を通じた古典的ハリウッド映画の技法の解説と、その先を行くヒッチコックの映画的冒険を高く評価するものです。
題名にもなっている『裏窓』の分析が詳しいのですが、そこで「切り返し」という、あまりにも当たり前になっている技法の構造について考察していて啓発されます。

 

 

巨大ロボットアニメにおける切り返しの重要性

 

それで『アルドノア・ゼロ』がこの「切り返し」の構造に立脚しているというようなことを書こうと思いました。
もっというと、巨大ロボットアニメに「切り返し」が不可欠であるということ。
もっというと、やっぱりそれって『ガンダム』が発明したものなのではないかいうこと(考証的な裏付けは皆無ですが、ガンダム(富野)が発明した」というテンプレの醸すいかがわしさにはある種の誘惑を感じます)。

ということで、『アルドノア・ゼロ』を通じて語る必然性は、「旬」以外なかったわけですが、「巨大ロボットアニメにおける切り返しの重要性」について考えてみます。

まず「切り返し」について定義しておきましょう。
クロースアップの定着から切り返しの発生までが以下のように解説されています。

 

そしてこの「よりよく見ること」の偏執狂的表象としてのクロースアップ(ないしバスト・ショット)が、映画史が初期から古典期へと移行し終わる頃までに支配的なショット・サイズとして定着し、それとともに顔の接写に必然的にともなう眼差し(視線)の問題が浮上してきます。
おそくもと1908年には外面を「見ること」と内面を「見ること」とが結合するわけですから(外見と内実の一致)、おそくとも1920年頃までには人間どうしがたがいに顔を「見合わせる」ことで感情交流をする(親密な対話をする)様子を映画は得々と描くようになります。それは古典的ハリウッド映画に支配的な「切り返し」と呼ばれる編集法で、しばしば人物Bに視線を投げかける人物Aの顔のショット①と人物Aによて見られた人物Bの顔のショット②とがつなぎ合わされます。
このショット①②の二元的編集によって物理的にフラットな映画のスクリーンに親密な立体感があたえられます。この「切り返し」編集は今日なお世界中のスクリーンで数多く見られる技法です

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』より*1

 


ロボットアニメにおいてどうしてこの切り返しが重要かというと、それがロボットという無機物のレイヤーを透過して、人間ドラマのレイヤーを導入することができるからです。
たとえばロボット同士の画を切り返してもそこに感情を移入する要素がありません。しかし、ロボットの内側の人間同士を写してそれを切り返すことにより、ロボットの中の人間同士の対峙という多層的なレイヤーを表現することが出来ます

 

通常、登場人物AとBにおける切り返しでは両者は視線を交し合う距離間にいます。しかし、ロボットアニメの戦闘シーンにおけるAとBはそのような緊密な空間を共有しているわけではありません。ですからむしろ、切り返しの技法を使用することで両者のあいだに親密な(仮想的)空間が結ばれると考えるべきでしょう。

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『アルドノア・ゼロ』最終話の典型的なコックピット斜め45度での切り返し

 

 

ガンダム』における切り返し

 

ガンダムは、今日のロボットアニメに必要不可欠な、「ロボットをメディアとした本当のコミュニケーション」というスタイルを確立したのではないかと思われます。
つまり、お互いに顔も見えない肉体の接触のない人間同士が、ロボットの操縦をかわすことでお互いの「内面」をよりよく理解していくという、今日まで連綿と続くモードです。
ただし『ガンダム』では、その切り返しの間隔が限りなくゼロに近づいた時、つまりお互いの意識がシンクロする瞬間の悲劇まで描いているのは特異なことでしょう。
切り返しとはあくまで二つのショットをつないだ時に生まれる関係性ですから、一つのショット(一枚画)では表現しようがないのです。ララァアムロが意識を交流させるシークエンスには、切り返しを否定するようなショットが見られます。

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しかし『ガンダム』においては、切り返しの限界点でそれを乗り越えることが出来ない。ララァアムロが切り返しとは別次元のコミュニケーションを始めようとしたら、シャアが「俺も入れろ」と割って入ってきて、結局切り返しを繰り返してしまいます。

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ララァ、やつとの戯言はやめろ!」

 


この辺はロボットアニメというジャンルが確立した現代から見ると、ある種のアイロニーにも感じます。男同士の切り返しがなくしてロボットアニメは成立しない、と言われているような。

 

 

『アルドノア・ゼロ』における切り返し


翻って『アルドノア・ゼロ』はどうでしょう。
先の本では「切り返し」について以下のような記述もあります。

…そもそも古典的ハリウッド映画における観客とは主人公が見たものを見る存在ですから、主人公の確信は簡単に観客の確信へと変わります。古典的ハリウッド映画の代表的編集法に「切り返し」と呼ばれるものがあります。これは画面の外にそそがれる登場人物の視線とその視線がそそがれていた(であろう)対象とをつなぎ合わせるもので、「見る者」と「見られるもの」とを時空間的な近接性において関係づけ、二元論的に物語を紡ぐ方法です。問題は、そのときカメラの視線にすぎなかったものが登場人物の視線に読みかえられ、それがさらに観客の視線に重ねられることで、観客は登場人物が見たものを見るという特権的なポジションを獲得するということです。

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』より*2

 

 

『アルドノア・ゼロ』はある意味この古典的な認識の構造に忠実でした。
第二期から主人公の界塚伊奈帆がが手に入れる左目ですが、視覚以外の情報を解析できるその能力は、視覚を容易に欺ける物語内世界(外見と内実の乖離する世界)で、内実を見抜く特権的なポジションとして機能していました。

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不可視境界線が見えるという矛盾を受け入れることに疑問がないことについて


ちなみに本書ではエリック・ロメール監督の緑の光線という映画について面白い話があります。
緑の光線」とは太平洋が水平線の彼方にしずむ瞬間、気象条件によってごく稀に観察される(と言われる)光です。映画『緑の光線』のヒロインは、見ることのむずかしいこの「緑の光線」をいっしょに見ることのできた男性こそ、自分の真実の恋人だというロマンティックな幻想をいだいています。はたせるかな映画のエンディングで彼女はむなしくすごしたヴァカンスの最後に出逢った男性とともに、水平線にしずみゆく夕日に一瞬だけ「緑の光線」を見ることが出来ます。
しかし本書の著者は「わたしたち観客は本当にそれをみたのだろうか」「わたしたちはヒロインの欲望に素直に同化するあまり、それを彼女とともに見たと勘違いしているにすぎないのではないか」という謎を投げかけます。

重要なことは、映画というものが、古典的ハリウッド映画体制の創生(1917年頃)以来、あくまでも登場人物と観客のあいだに、なんらかの同一化をきずくように制度化された視覚装置であり、それゆえ登場人物の盲域は観客の盲域になるということです。つまりロメール映画のような現代映画においては、登場人物に見えていない(気づいていない)ものは観客にも見えない(気づかない)ままに終わり、登場人物が見たと思ったものは観客もまた見たと思い込むのです。言いかえれば、観客はしばしば登場人物の自己欺瞞に気づかぬまま、それを見逃してしまいます。

 

ヒッチコック『裏窓』ミステリの映画学』より

 

もちろん『中二病でも恋がしたい!』の「不可視境界線」が本当に存在したのかなどという無粋なことを言うつもりはありません。むしろメディアの特性として、上述の実写映画『緑の光線』とは違い、アニメやCGというものは「緑の光線」を存在させることができる、つまり「不可視」を「可視」化することができるという当たり前のことが、妙に興味深くなったということでした。これはもう「不可視境界線は本当に存在したのだろうか」などというインテリジェンスな問いは封じ込められてしまっていて、私たちは何気にそういう条件の中でアニメを見ているのです。

 

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*1:ちなみに本書の要諦はヒッチコックがそういった古典的技法脱構築しているというようなことなので、著者は以下のように文章を続けます。
しかし、この「切り返し」編集の欺瞞を最初に告発し、映画にまったく別のヴィジョンをあたえたのがヒッチコックなのです。つまり対象を「見ること」がしばしば対象を「愛すること」であるような関係が崩壊したとき、映画はどのような事態になるのかという問題についてヒッチコックは深い省察をくわえるのです。>

*2:ちなみに本書がスリリングなのは、ミステリーの作劇の問題ではなく映画史が積み上げた認識の問題として、『裏窓』から以下のようなミステリーを引き出しているからです。
映画という視覚的媒体の内部において主人公や観客が見た(と確信した)ものが、実はそうではなかったかもしれないという(あってはならないはずの)可能性。言いかえれば、中年夫婦のあいだには本当に殺人事件がもちあがったという客観的証拠などどこにもないにもかかわらず、誰もが事件はじっさいに起きたと思い込んでしまうことのほうが問題であるような映画、それが『裏窓』なのです。そしてこの奇妙な事態に、ほとんど誰も気をとめることもないまま今日にいたっているということを、わたしたちはミステリの問題というよりも、むしと映画史と認識の問題として引き受けなければならないはずです。