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春にして『長門有希ちゃんの消失』の多幸感と二次創作の切なさを想う

 

長門有希ちゃんの消失』の多幸感

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長門有希ちゃんの消失』を見ていて、あの二次創作の世界観にコミットメントできるのって声優陣のおかげだよなあとしみじみと思いました。
つまり一次創作と二次創作を繋ぐものとして、まず著作者の創造したキャラクターは必須条件でしょうが、ことアニメに関しては声優が正統性を担保しているというか、着ぐるみ(キャラクターデザイン)が変わっても、中の人が同じなら白けることなく楽しめるなあと。
そして物語の多幸感が、同じ声優が再結集したという事実に支えられているような気がしました。

 

本来二次創作というものは、「あのキャラとあのキャラがああいう関係だったら」といような願望充足の場として多幸感があるものでしょう。
しかし、『長門有希ちゃんの消失』を「幸せそうでよかったな」とぼんやり見ていながら、「むしろ俺は二次創作的な世界観を『切なさ』として消費してきたのではなかったか」ということにはたと思い至りました。

 

アニメに埋め込まれる二次創作

アニメにおいて、二次創作的想像力が作品内部に埋め込まれていることがあります。
たとえば、『劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語』で、杏子が加わる学園生活がそうでした。
まあそもそも『涼宮ハルヒの消失』の長門有希がそうでしたね。
最近で思い出すのは、〈物語〉シリーズ セカンドシーズンの『花物語』のエンディング。

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これら作品内部に埋め込まれる二次創作的想像力には、創作者のオルタナティブな想像力の発表の場と視聴者の願望充足がマッチングする反面、視聴者は「実際の物語展開ではありえなかった」というメタメッセージも受信しているので、一概に多幸感があるとは言い切れず、「if」を見る一抹の切なさがあります。


さらに現代のサブカルの受容層には東浩紀さんの言う「ゲーム的リアリズム」のような感性が育まれており、それが拍車をかけます。つまり、マルチエンディング型のルート分岐的な物語構造にコミットできるという感性です。ですから「歴史にifはない」「ifはあくまでもif」というなドライな感覚にはなれいということです。つまり「ありえない未来」ではなく「選ばれなかった未来」を見ているような感覚が強い。

 

ブコメが描く「切なさ」

「切なさ」ということであればラブコメと相性が良くて、たとえば演出として巧みだと思ったのは『中二病でも恋がしたい!戀』の第9話で七宮の「if」がインサートされるシークェンスです。

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逆にそのような想像力を逆手に取って切なさを描くのに巧みだと感じたのは『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。』。
こちらは逆に、キャラクター小説の世界観の中で「後戻りできない物語」を積み上げていくことで、切なさを描いています。
語り手の比企谷八幡は頭の良い人間ですが、不器用な人間としても描かれています。奉仕部への依頼という形で物語の要所に訪れる彼の選択に対し、常に「別ルートもあったのかもしれない」というような余韻が残ります。しかし物語はズンズン進んでいきます。ですから前述の「別ルートもあったのかもしれない」は「いや、物語は後戻りできない」として反語的性格を強め、ブコメが幸せな結末を捨てていく様を見せつけ、読者を煩悶させます。