久々に見た『クラナド』の印象
久々に京都アニメーションの『クラナド』見てたんですけど、これって結構、後の『けいおん』につながるような表現あるんですね。
いわゆる「いたる絵」の顔面比率のインパクトが強かったのですが、再見でまた印象が変わりました。
なんというか、グラフティ調。
彩度を抑えた平面的な色使い、ルーズな輪郭線、脱力した身体性とか。
たとえば身体性は、なで肩で、少し猫背の体躯は臀部にかけて膨らんでいるのだけど、足首にかけてすぼんでいます。グラフティ調といえば「ポップ」という言葉が出てくるのだけど、むしろ「ヒップ」といいたくなるようなスタイルです。
アニメの省略の技法については「記号化」ということはよく言われることですが、わたしは上記のグラフティ調的な省略がもたらす「ルーズ感」「脱力感」ともいえる表現は、作画の「簡略化」がもたらす経済的な貧しさの感がないので好きです。
とくに元のキャラデザインの力みが抜けていくタイミングが、『アフターストーリー』で主人公が学園ヤンキーから脱していく過程とうまく重なっていると思いました。連続して視聴するとキャラデザインがアニメの方に馴染んでいくような感覚があって、いい具合です。
なんか長期連載の漫画で作家の絵が洗練されていく感覚に近いです。
作画において「崩れ」とはネガティブな評価ですが、井上雄彦さんの『北斎漫画』的なマスコット化に通ずる、フリーハンドな「味」のある「崩れ」もを感じます。
枝毛や眉毛を描線のみで表現している。フリーハンド感が出ています。
グラフティ調ということで言えば、アニメ『クレヨンしんちゃん』の表現を顧みる必要も感じます。子どものころに見た『劇場版クレヨンしんちゃん』ですが、あのシュールで不気味な世界観は、軟体動物のような骨格不在の身体性と動きにも支えられていたのだなあと。
湯浅政明さんのようなアニメーターを輩出していますしね。
娘(渚)が大人の女性になってしまったことと、懐妊したことを同時に知ってしまい、悲喜の狭間で常軌を逸した古河家父の描写。クレしん感あります。
まあ、キャラを単位とした身体性で認識するのか、あるいはパースなどを考慮したレイアウトとして認識するのかというラインはあると思いますが。