さあ、等価交換しましょ ―『結城友奈は勇者である』から考える
今期の『結城友奈は勇者である』についてテーマ的に語ってみたいと思います。
まあ、このアニメそれほど面白いというわけではないのですが、話の展開を「どのように持っていくのだろう」という極めて外野的な興味です。
実は韻を踏んだ駄洒落っぽい題名から、ラノベ原作だと思っていたのですが、オリジナルプロジェクトでした。監督は売れっ子感のある岸誠二さんです。
健全な戦闘美少女もの
いわゆる戦闘美少女ものです。
一話目を観た感想は、Aパートの導入が手堅くまとまっているなあ、とか、Bパートの戦闘はなんか『まどマギ』みたいだなあ、とかぼんやりとした感想です。
ちなみに一話で興味深かったのは、バリアフリー描写で、アニメでは結構珍しいような気がしました。これについては後述する本稿のテーマに譲ります。
魔法少女ではなく勇者なのは、少し新しいところなのかもしれない。主人公が剣を持たない素手の戦闘スタイルというところからも差別化を感じました。だから最初の印象としては、『まどマギ』的な鬱戦闘美少女のトレンド*1を、健全なジャンルものへと意図的に修正するような話が展開するのかなと思って見てました。
たとえば日常系部活ものの鉄板フォーマットであるホモソーシャルな関係(まあ通常男性関係に使う言葉ですが)であったり、『まどマギ』のマミさんポジションである部長の苦悩をシェアする形で物語が展開していくことだったり、あるいは馴れ合いを厭うエリート主義的な転校生が容易に籠絡されたりと、健全な展開が続きました。
極めつけは第5話で、使徒みたいな生命体が大量に来襲するのですが、特に大きなひねりもなくインフレバトル(「満開」という能力解放の切り札があった)でそいつらをやっつけてしまい、なんか逆に肩すかし感さえありました。
ロボットもの要素も加わり、かなりキッチュな世界観が展開した
「等価交換」は契約と取り立て ―セカイ系は自己破産を申請する
ところが今話(第6話)で、少し雲行きが変わります。「満開」という切り札を使った戦闘美少女達は、その代償として(各々が片目が見えない、声が出ない、味覚がない、片耳が聴こえない、という)障害を負います。ただし、全体の「健全性」という流れからして、ハッピーエンドにはなると思うので、この展開自体が新しいということではなくて、「障害」という設定が新しいと感じたのです。
喋れないのでスケッチブックを使って会話。目が見えない部長はなぜか眼帯。
たとえばセカイ系というモードがあります。これを等価交換*2という側面から考えてみます。そうするとセカイ系とは、好きな子の生死と世界の存亡が等価だっら、どちらを選ぶかという問題を提起していると考えられます。そしてセカイ系が批判されるのは、まさにその手の想像力のあり方で、つまり「好きな子の生死と世界の存亡を等価とみなすとはなんたる短絡か」ということでしょう。
ただし見方を変えると、セカイ系は等価交換の図式を持ちだして最も私的なものと最も公的なものを結びつけただけであって、重要なのは等価交換のサスペンスをドラマツルギーとしてを提示したことであるとも言えます。ということは何と何が等価なのかということは恣意的であって、この観点から言ってしまえば、セカイ系とはそれを両極端に設定したモードであったということです。つまり別の設定の仕方もあるということです。
シンプルなヒロイズム
たとえば次のような場面を考えてみましょう。
主人公はある日特別な力を手に入れた。町を歩いていたら、道路で車に引かれそうな子どもを発見した。
主人公は咄嗟にその能力を使い子どもを助けた。ほんの切り傷を負ったが。
上記のプロットを組み替えます。
主人公はある日特別な力を手に入れた。町を歩いていたら、道路で車に引かれそうな子どもを発見した。
その時主人公は次の等価交換が成り立つことを知っている。
子どもの命=自分の軽傷
主人公は自分が軽傷を負うことで子どもの命が救われることを選択した。
『寄生獣』第一話より
これがヒロイズム(勇者)というものです。
どこまでヒロイズムを保てるか ―ピーター・パーカー命題
しかしこれが、
子どもの命=自分の片腕
だったらどうでしょう。主人公は見ず知らずの子どもを助けるために、自分の片腕を失うということです。主人公の選択は一気に文学的*3になります。
こうして、ヒロイズムとともに、自己犠牲の慈善活動(それこそ本作の「勇者部」の活動です)がテーマとなります。主人公は片腕を失った(そしてその子を救った)として、果たしてそうした等価交換の末に自分が消滅してしまうまで活動をつづけるのか。
この人もかなり悩んだくち(『Fate/stay night』より)
ですから、セカイ系では交換対象を両極に設定したために批判されうる等価交換図式ですが、交換対象を上記のようにグレーゾーンに設定してしまったらしまったらで、物語のベクトルが生々しい方へ変わってしまいます。
で、本作に戻るのですが、こういう文脈で見ると、登場人物が死ぬのではなく、障害を負うというところが割と興味深く感じられたわけです。たとえば、聴覚障害、視覚障害、味覚障害、というものと並んで登場人物の一人に「声が出ない」という障害が現われますが、これがあることで「五感の一部を失う」というような「設定っぽさ」が薄まり、身体の器官のどこかに障害を負っているというリアリティがでています。ここにきて、第一話序盤で描写された車椅子の登場人物の生活感が、障害をかかえて生きいくというビジョンにリアリティを持たせます。物語に厚みを持たせるのはただ障害を負うとう設定ではなく、障害を負って生きるという重みをイメージさせられるかだと思います。
・・・と、まあこまで書いてきてなんですが、別に『結城友奈は勇者である』がそういう意味で優れた作品だというのではなく、アニメが扱ってきたテーマとして見るとコミュニティ志向*4とか公共性とかそういうものが背後に感じられて、興味深いのではないかという考察にすぎません。カルチュラル・スタディーズとでもいいましょうか?
『ギルティクラウン』を覚えているか?
そういえば同じく車椅子の戦闘美少女が登場した作品に『ギルティクラウン』があります。主人公のヘタレ感が際立っていた作品ですが、この作品のラストは、大団円後に視力を失いながらも生きている主人公が描かれて終ります。若干『冬ソナ』のヨン様みたいな感じがしますが、心中していないあたり、ヘタレの面目躍如じゃあないですか。
*1:いや、トレンドというのは違うか。ニュースタンダードとか?
*2:この言葉、アニメでたまに聞くのですが、やはり出処は『鋼の錬金術師』なのでしょうか。
*3:だいたいサブカルで「文学的」というと「実存的」ということで、ここでの「実存的」とは「マジに悩む」ということです
*4:物語の舞台がいかにも「どこかの地方都市」というだけでなく、車椅子の登場人物の生活感から分かるように、障害を負うということは、周囲の人間に頼らざるを得ない場面がでてくるということです。たとえばセカイ系が最悪自己責任というような形で自己を放擲するのに対して、個人の命は自分だけの所有物なのではなく社会的な関係性である(たとえば悲しむ人がいるというウェッティな理由であれ、死ぬのにもなにかしらの社会的なコストが伴うというようなドライな理由であれ)という意味でコミュニティ志向ということです