エンタメで描かれる天才像について
世評の高いSF作家、テッド・チャンの「理解」という短編を読んで、娯楽作品に描かれる「天才」について少し考えました。
天才をイメージしてみる
フランスの批評家であるロラン・バルトは「アインシュタインの頭脳」*1というエセーで次のように述べています。
アインシュタインの頭脳は神話的物体である。逆説的に、もっとも偉大な知性はもっとも完成した機械のイメージを形成する。あまりに強力な人間は心理から切り離されてロボットの世界に導かれる。
たしかにその通りで、娯楽作品に登場する天才はとても処理能力の高い脳味噌を持っています。
類型的なのは、対象の思考を正確に予測するという天才像です*2。これは物語的にかなり爽快感がある要素となります。頭のいい人間ほど予測を精緻化でき、その頂点が天才として描かれます。ところが、その計算モデルが依拠しているのは大抵ニュートン以来の古典物理学的と言いますか、基本的に世界は予測可能だとする立場です。おそらく作者たち自身も、自分より頭の良い人間というのを想像して人物造形をするので、作家としての想像力が試されるのでしょうが、そこでは案外古いモードが繰り返し再生産されている印象を受けます。たとえば、これが陳腐化すると興ざめしますし、魅力がないとチートと言われることもあります。
そして描かれるのは、多くのロボットのように冷徹な人間像ではありますが、完全に「心理から切り離され」ることはない。なぜならドラマが無くなるからです。ですから、天才的思考を持つが感情で動くという、相反するイメージを両存させることになる。その結果、「天才的な頭脳を最大限に使いこなせていない人間が本当に天才と言えるのか」というような設定(天才)と作劇(感情)のミスマッチが、読み手に不信感を与え、劇中の天才の神話を傷つけることもあります。
機械というよりコンピュータとしての天才
テッド・チャンの「理解」の主人公も天才なのですが、この作品では主人公は薬物治療を通じて、その副作用として天才化します。その思考過程を追うのも面白いのですが、天才像として興味深かったのはコンピュータ用語を駆使して、つまり現代ポピュラー科学の魔術的イメージを天才の造形に利用しているところでした。(もちろんただのガジェットではないのですが、あくまでそういうモードとしてこういう捉え方をしてみます。)「理解」は1991年初出ですが、このモードは現在のポップカルチャーではかなり一般化していますね。*3実は真っ先に『魔法科高校の劣等生』を思い出しました。次のような記述です。
自我にかけた手綱をもっと強固にしておかなくてはいけない。メタプログラミング・レベルで自分をコントロールしているとき、心は完全な自己修復性をもち、妄想や記憶喪失に似た状態から自分を復帰させることができる。だがもし、メタプログラミング・レベルにうっかり深入りしすぎれば、心は不安定な構造に変じるかもしれず、そうなればわたしはたんなる狂気をこえた状態に陥ってしまうだろう。心をプログラムして、それ自体の再プログラミング・レンジをこえて動くことは自律的に禁止するようにしておこう。
私はPCに弱いド文系なので、専門用語が出てくるだけで幻惑されてしまうのですが、上記の例のように、コンピュータのアーキテクチャそのものを天才の思考体系のアナロジーにするというのは大胆な発想だと思いました。
↑ 『魔法科高校』 主人公の自己修復術式。妹に殺されかけて発動した。
ちなみに少し前に読んだ小説では野崎まどさんの『know』が、がっつりと天才の心理とテクノロジーを主題としていました。
あと、コンピュータと魔法のアナロジーに関しては、日本のサブカルチャーが生んだ発想かもしれませんね。未読・未見ですが桜坂洋さんの『よくわかる現代魔法』がそんなかんじでしょうか。
余談ですが
まあ日常会話でも「あの人は頭がいい」などとよく言うのですが、たいていはテストなどの点数で測った客観的な数値ではなく、会話した印象などの直感的なものだと思います。そういう時に、相対的に頭の悪いと自認した人間が、相手に与えた「頭がいい」っていう評価は何に基づいているのだろう、と不思議に思うことがあります。つまり、上記のような、なにかしらの天才像の問題なのではないか。あるいは一部には、ある種のモードに不感だっただけ、というだけのこともあるような気がします。たとえば冒頭でロラン・バルトを引きましたが、いわゆる現代思想をかじっている人の思考癖などは分かる人間には分かるのですが、やはり初めてそういう話を聞いた人などは「とても斬新な考え方をする人だ」と評価するかもしれません。あるいは評価する側にも、他人を評価することへの優越感のようなものもあるのかも・・・などと考えるのは天の邪鬼ですかね。