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お楽しみはパジャマパーティーで

読書の備忘、アニメの感想などを書いています

『魔法科高校の劣等生』の歓迎すべき凡庸さは作品論だけでは評価できない

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●作品単位ではなく、クール単位でアニメを経験するということ

周知の通り、深夜アニメは、3ヶ月を1クールとし、毎週1話ずつ放映されるという商業形態をとっています。一方で録画やストリーミングなど、見る側の方法も多様化しております。石岡さんの『「超」講義』でギアを変えるというような表現がありましたが、アニメの「捌き」方、つまり消費の仕方も様々だと思います。

 

前クールのアニメを一望したとき、後から一気に見たという例を除けば、毎週放映を心待ちにするアニメはありませんでした。しかし毎週見るのが苦にならないアニメというのはありました。「苦にならない」というと、毎週アニメを見るのは「苦痛」だと聞こえそうですが、苦痛というよりは、目まぐるしいほどの多用なジャンル、ストーリーが供給される環境で、その都度受容態度を変えなければならないことの「疲れ」のようなものです。いくら娯楽作品といえど、完全に「受け身」ということはありえず、消費者も意識または無意識のうちに心構え(チューニング)をしているはずです。

 

たとえば、まったく前情報のない作品に遭遇したとき、「これはどういう作品なのだろう」と自身のデータベースの中から参照項を引っ張ってきてしまう心性がそうでしょう。ましてや放映前に多くの作品情報に触れることができるアニメにおいては、自分の予想とのズレや、ぼんやりながら自分の中で作品像が固まって行く過程を楽しむことがあると思います。*1*2

 

●箸休めとしての日常系

一般的には、この「疲れ」に対するアニメ的な処方箋は、なんといっても「日常系アニメ」でしょう。*3

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↑ 今期はたとえば『ヤマノススメ』 日常系のフォーマット

 

現代が舞台で、ストーリーの情報量も少ない、つまりギアチェンジの労力が少ない。アニメ作品単位の魅力とは別に、ジャンル的な求心力がそこにはあると思います。ちなみにアニメを見ない人からは、「疲れるのに見る理由が分からない」「そこまで疲れるなら見ない方がいい」と言われそうですが、あくまで「アニメを見たい」という欲求に則った上での、各々のアニメファンの適応の仕方の話です。「娯楽」=「ノーストレス」という図式はいささかナイーヴでしょう。

 

●それでもやっぱりアニメを見てしまう

前クール突出したアニメがなかったなか、振り返って個人的に大きな存在だったとおもったのが「苦にならない」「見やすい」アニメがあったことでした。そんな、「アニメを見たい」という漠然としたバイオリズムを支えてくれたのが、『ノーゲーム・ノーライフ』と『魔法科高校の劣等生』です。意外なのが日常系ではなくストーリーものだということです。

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ですから、やや前置きが長くなりましたが、ストーリものにおける「見やすさ」の演出について考えてみようというのが本エントリーの目的です。とくに今クールも継続中の『魔法科高校の劣等生』について考えてみたいと思います。

 

●『ブリーチ』

ちなみに、これら「見やすいストーリーもの」は、「週刊少年ジャンプ」の『ブリーチ』のポジションに似ているかもしれない。作画のクオリティと安定感。そ れでいて、インフレバトルと揶揄されがちな単線的な展開や、大きめのコマ割りなどの軽い情報量*4

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↑ 現代詩のフィールドでも活躍

 

魔法科高校ノブレス・オブリージュを知っている

しかし『ブリーチ』と大きく違うのは、視聴者への「引き」が強くないということです。『魔法科高校の劣等生』は、各話の最後を「続きが気になる」寸止め的な終わらせ方をしない。むしろ一つのエピソードをはみ出させず、きっちり各話に収めているような律儀さを感じる。たとえば九校生篇のハイライトとなったクリムゾン・プリンスとの対決がそうでした。視聴者にストレスを与えない上品さがある*5。各話の幕引きはかなり地味ですが、爽やかです。

 

作画については、デザインそのもののバランスがよく綺麗です。そして崩れが目立たないように、むしろ動きを抑制しています。直線を基調としており、動作は機械的ですが、カットと構図の変化で硬直感を緩和しており飽きにくい。かなり経済的な印象を受けますが、アクションシーンでは相応のクオリティを保っており、むしろ全体としてメリハリが効いているという印象を強く持ちました。

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アクションシーンはスタイリッシュで、ワイヤーアクションのような、立体的なカメラワークと人工的なポージングで魅せます。あとPC技術のアナロジーとして魔法が扱われていることと関係あるのかもしれませんが、『マトリックス』の電脳世界での格闘のように、打撃の重量感よりも、リズムやテンポの気持ちよさを押し出しています。魔法のエフェクトも透明で薄いため、これもコンタクト、ヒットの反応が期待でき、エフェクトや音の快感が強調されます。このようにアクション演出といえど、ヘヴィではなくライトに統制されています。それこそクリムゾン・プリンスを撃沈した技が指パッチンでした。

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●基本的にマンチ・クライマックス

アニメーション演出全体がこのように派手さを避けて地味に抑制されており、この抑制感はストーリー展開にしてもそうです。お兄様のポテンシャルに比して、その能力が全開まで解放されることはありません。「強すぎて全力を出す必要がない設定」とも読めそうですが、むしろ印象としては全体をアンチ・クライマックス(絶頂までいかない、寸止め)感で統一していると感じます。つまり「期待して肩すかし」ではなく、「そういうスタイル」だという感覚を与えるということです。

 

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↑ 典型的なアンチ・クライマックスの場面。妹の道具を細工され、珍しくキレたが、すぐに理性を取り戻した。

 

たとえばこの抑制感は、お兄様の設定ともシンクロしています。彼の感情が高ぶらない理知的な特性は、感情値が戦闘力に換算されるヤンキー型のバトルとは対照的です。また強大な魔法力を持つ妹も、氷属性で、アニメの青いクールなモチーフに重なります。

このように、『魔法科高校の劣等生』の見やすさは、主人公が強いストーリーものでありながら、抑制というコンセプトが明確な作風のおかげなのです。

 

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↑ おまけ。第18話の十文字先輩。珍しく過剰演出なので、むしろ不気味。

 

●ちなみに『ノーゲーム・ノーライフ』はというと

最後に『ノーゲーム・ノーライフ』に関してですが、こちらは「見やすさの美学」というよりは、単純に平均点以上の面白さだったのが視聴のモチベーションになりました。

いしづかあつこ監督の映像美*6が幻想世界の構築にマッチしていたのは言うまでもありません。とくに、劇中のゲームの設定は、最初は稚拙さやチート感(視聴者に明確なルールが知らされない)が鼻についたのですが、むしろゲームのルールではなく、会話のやり取りやギャグなどの、演出面の勢いでゲームのシーンを作っていたのが良かったと思います。*7たとえば『ハンター・ハンター』など、劇中のゲームに緻密な設定を用意し、それを読者と共有するという本格推理小説的な「読者VS作者」型とは、また別な方向性なわけです。*8おかげで、視聴者が知恵比べをするタイプの劇中ゲームでなかったところが、本作の見やすさだと思います。*9

 

こういったアニメはそれぞれ作品単位で最良の作品というわけではないのですが、捨てがたい作品たちです。

以上、「週間で放映される多くのアニメを消費するという現状」を所与としてアニメ作品を批評する試みでした。

 

*1:作品の批評態度(見た後)ではなく、作品の受容態度(見ている時)のことです。作家・作品単位で批評を語ることを否定しているわけではありません。

*2:この「心構え」も娯楽産業の中ではかなり構造化されており、しかし否定的な意味ではなく、肯定的な批評理論である映画学の「ジャンル論」を援用して、別の稿でアニメの消費についても考えてみたいとも思っています。

*3:中毒症状は「難民」を生むと言われる。

*4:一方、個人的に毎週読むのを後回しにしがちなのが、情報密度の高い 『ワンピース』。『ワンピース』はむしろ「週刊」よりも「コミックス」で、「読むモード」に入ってから読むほうが楽しめるのかもしれない。私の場合、 『ジョジョ』シリーズがまさにそうで、「週刊」で目を通していながら魅力が分からず、「コミックス」の一気読みで開眼しました。漫画の一気読みほど爽快な アミューズメントもありません。「作品世界に浸る」ということは「作品世界から出る必要がない」という安寧でもあります。

*5:もちろん原作の不条理なキャラ設定に立腹する人もいるでしょうが。

*6:岩井俊二監督のスモーク演出を、アニメに翻訳した――というのは適切だろうか。

*7:ゲームのアナロジーとしての心理バトルという意味では、『コード・ギアス』のポリティカル・サスペンス感が秀逸だと思います。つまり、劇中での登場人物たちの驚きと、視聴者の驚きにあまり温度差がない。もちろん第一に脚本の功績ではあるのでしょうが、視聴者にツッコませない雰囲気や勢いをつくる演出的な側面も大きいと思います。たしか宇野常寛氏が『ギルティクラウン』を評して『コードギアス』のようなネタとベタの使いわけに失敗している、といようなことを述べていましたが、そのような劇中の人物と視聴者の間に結ばれる共犯の空気を作り出せるかは重要だと思います。たとえば、同じ大河内脚本の『革命機ヴァルヴレイヴ』の独立宣言などは、『コードギス』のゼロのけれんみたっぷりな独立宣言のようにはノレませんでした。

*8:そういえば『魔法科高校の劣等生』の九校生篇でも同じような劇中ゲームがありました。お兄様が出場するゲームに関しては、いまいちルールが分からなかった ものの、アクション演出で盛り上げます。ただし、お兄様がエンジニアとして観戦するゲームは、それぞれ何かしら見せ場が用意されてあり工夫を感じました が、視聴者置いてけぼり感が否めなく、残念なところです。

*9:関係ないのですが、作家の故伊藤計氏が原田眞人監督の『金融腐蝕列島 呪縛』を評して、一見難解な金融用語を濫発しているように見えて、本質は演出でワクワクやドキドキ感を「捏造」している優れた「活劇」だ、というようなことを書いていました。そういう好感に近いです。