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お楽しみはパジャマパーティーで

読書の備忘、アニメの感想などを書いています

『あの夏で待ってる』

夏が来るたびに見たくなる。夏アニメの定番!――とは残念ながらいかなかった『あの夏で待ってる』。

でも私、このアニメ大好きです。調べたら冬アニメだった本作ですが、夏真っ盛りの今こそやはり語りたい。

 

●残念な脚本

どうでしょう。一般的には「『あの花』に続けなかったけどウェルメイドな佳作」といった評価でしょうか。たしかにストーリーにインパクトがない。ただアニメーション映像としては水準が高くて、私は見ていて幸せな気分になります。むしろ物語を無視すれば、かなり楽しい。

 

●やっぱり田中将賀が好き!

(最初期の『リボーン』は見たことがないので、)『とらドラ』から田中将賀さんのキャラデザのファンです。人間の記号化がとても経済的で、個人的にアニメーションにおける人間のコミカル化としては、理想的なキャラクターデザインだと感じています。

この人の描く人物は、アングルにしろ、描線にしろ、なんとなく「斜め」がポイントだと思うのですが、うまく言語化できません。ただ、アニメの過程で簡略化されても、作画の失敗が与える安っぽさを感じさせない、その秘密がデザインそのものにあるような気がします。

 

●面長の系譜

そしてもう一つの特徴は面長が多いということでしょうか。原作ものではありますが、『学園黙示録』との親和性も頷けます。そしてこの、田中将賀さんの面長の系譜を考慮したときに、『あの夏』は輝きます。

面長でいえば、『あの夏』はヒロインのイチカ先輩が典型例です。さらにいえば、主人公の友人の哲朗、その他「大人」たち(主人公の姉、哲朗の姉、イチカの姉)など面長が簡略化されたような、縦長も多い。デザインが簡略化されるため、存在感としては若干モブっぽくなります。

そして他の代表作『とらドラ』と『あの花』においても、やはり面長が多いです。『あの花』のヒロインであるメンマも、面長であり、その分瞳が縦に大きくなっています。

 

●丸顔の登場

ところが『あの花』では丸顔、とくに面長から差異化されるような、両目の間隔が広く横長の瞳が特徴的なキャラクターが描かれます。主人公に気がある青髪の谷川柑菜(かんな)、その親友で内気な北原美桜(みお)、そして主人公たちの先輩「永遠の17歳」山乃檸檬です。つまり『あの夏』では、田中将賀デザインの丸顔が楽しめる。そして、このフィギュアが表情豊かで可愛い。とくに秀逸なのがカンナとレモン先輩です。

ところで、『とらドラ』のタイガは面長でないじゃないか、と思った人もいるかもしれない。たしかにそうです。でも彼女の場合は丸顔ではなく小顔なので、例外としましょう。タイガ、メンマ、レモン先輩とロリキャラを並べた時に、3通りの造形があるのは興味深いことです。

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●カットイン

本作では、主人公たちの映画作りがストーリー進行に大きく関わっています*1ので、映像用語の「カットイン」という言葉を使って、カンナとレモン先輩の行動を説明してみましょう。ここでカットインというのは、主人公カップルのロマンチックな進行に「割り込む」「ツッコミを入れる」という意味です。

 

●谷川柑菜

まずは本作で、ベスト・コメディエンヌな活躍をしているカンナについて。彼女は主人公に片想いを寄せていますが、告白できずにいます。映画作りをきっかけに、主人公に近づきたいと思っていますが、女優役のイチカ先輩と主人公の接近をもどかしく見ています。主人公カップルがいいムードになると、酔った勢いとかコミカルな調子でカットインしてきます。このようにロマンチックに流れるところをテンポ良く中断する彼女ですが、後半に主人公と異星人であるイチカ先輩に「別離の物語」が始まると、今度は物語をつなぐためにカットインしてきます。

まずは主人公に振られると分かっていて告白し、案の定玉砕し、自分のポジションを確固にします。それからは若干自虐キャラになり、物語が停滞しそうになると、主人公カップルの背中を押すのです。このあたり、見ている方にも「なんか脚本に都合いいキャラだな」という感じがしてきて、ソフトな凌辱属性すらあります。

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●新人声優とベテラン声優

このキャラづけに一役買っているのが若手声優の石原夏織さんでしょう。

たとえばアニメーション映画などの企画でタレントが特別出演する時など、素人の声(俳優でさえも)がアニメに乗ると違和感を抱きます。そういう時に私たちが痛感するのは、アニメ的世界観が声優によって洗練されたモードで虚構されているということです。そのような世界では、自然な声ほど馴染まずに、アニメーション画面から「浮いている」と感じます。新人の声優さんでさえ、そのように感じることがあります。そして、新人の石原さんの甲高いCVは、『あの夏』で、いい意味で浮いています。つまり視聴者の耳を引きやすく、カットインの効果を高めています。そしてカンナの、前のめりな愛らしさに寄与しています。

対照的なのが、ベテランの田村ゆかりさんの演技でしょう。レモン先輩の口癖は「うふふ」です。寡黙です。それでいて存在感があります。

 

●山乃檸檬

レモン先輩もカットインをするポジションですが、彼女はむしろヒロインのイチカをある目的のために観察しています。ですから主人公とイチカの関係の進展自体には干渉しません。ところがイチカを観察するという立場上、カメラで彼女の行動を撮影したいのです。ですからヒロインカップルがロマンチックな展開に流れて、ふと横を見るとカメラを持ったレモンがいる、ということになります。カンナが音とアクションでカットインしてくるのに対して、レモンは自分は動かずに注意を自分に向けさせるというやり方でカットインしてくるのです。レモンは主人公カップルに向けられるはずのフォーカスを奪うことでカットインするのです。このときレモンに対してカメラを向けるのは、物語の外の力学です。つまり、カンナが制作サイドに都合よく振り回されているのとは対照的に、レモン先輩は制作サイドを動かしている、という印象を与える。この辺も新人の「動」とベテランの「静」という対比があります。

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と、まあこんな感じで、カンナとレモンの演出に絞ってもこれだけ楽しいわけです。

 

●トレンディードラマの気持ち悪さ

褒めてばかりなので、苦手なところも述べてみます。

それはトレンディードラマ的なクサい演出です。『あの花』臭がすると感じたので、長井龍雪監督の特徴なのかもしれません。つまり演出に、感傷的なクサさがありそれが苦手です。たとえば長井監督が演出に定評のあるOPムービーのようなフォーマットならロマンチック止まりでよいかもしれません。たとえば『凪のあすから』の2期オープニングが典型。

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↑ フッと視線を彼方へ向けたりする。「まなざし」はポイント。

 

『あの夏』でいえば、一貫して主人公の友人である哲朗を巡る関係性の描写が、そういうクサい演出がされており、ちょっと恥ずかしい。登場人物の傷心を埋めるように、すごくご都合主義的に登場人物が現われたりして、戸惑います。

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 ↑ 失恋直後のカンナ。この涙はリストバンドでは拭かない。どこからか現われた哲朗。悲しんでいる女の顔は見ない主義。さらになぜかすぐ近くの物陰にミオ。一部始終を把握して泣いている。

 

●岡田磨里脚本の既視感

ちなみにトレンディードラマという言い方をしたのは、具体的には『愛という名のもとに』という1992年の群像ドラマが念頭にあります。(私はこれを再放送で見ました。)『愛という名のもとに』の脚本は野島伸司。90年代のトラウマを盛り込んだ群像ドラマの巨匠です。そして『あの花』がネオ・トラウマ群像な感じがするから、その系譜を意識したものです。*2ユースカルチャーへのトラウマ物語の移植とでも言いましょうか。*3

 

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私にとって『あの花』は、爽やかさや儚さといった感動よりは、じつは秘密基地や神社で始まる「俺/私こそが加害者」というような告白大会が、トラウマ・ドラマの主人公の覇権争い*4をしている、集団ヒステリーのような不気味さの印象が強いのです。*5感傷の過剰表現としての外傷です。感傷が背伸びだとすれば、外傷は逆に退行でしょう。

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『視覚文化「超」講義』のキーワードであるノスタルジー。その具体例としても挙げられていた『あの花』ですが、個人的には90年代のトラウマ群像の、メディアを乗り換えたリバイバルとして気になっています。「ドロドロの恋愛群像劇」をアニメで見る面白さ。実写ドラマにおいてソープオペラなどと呼ばれる過去のモードが、アニメという距離感で中和される。これは、日常系というアニメ表現の必然性*6のないドラマを「あえてアニメでやることで生まれる快楽」とはまた別のベクトルです

 

●その男、石垣哲朗

で、『あの花』のそういう系譜を考えた時に、『あの夏』は群像劇のクサさは引き継いだところもあるが、哲朗周辺だけに限定されている。むしろ見方を変えれば、<縦長のフィギュア=大人の世界>に容姿だけ属してしまった若者である哲朗だけがトレンディー的な磁場を持っている=背伸びの寓意、という批評的な距離感ともとれる。かなり強引に。そして、この男も最終的には丸顔のミオに籠絡されるのである…

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↑ CV阿澄佳奈(左)とCV井口裕香(右)に引っ張られる哲朗。実は奥手。

 

いやしかし考えてみるに、アニメにおいて中二病パロディ・キャラというのは大分形式化されてきましたが、哲朗というトレンディパロディ・キャラはなかなか画期的ではないですか!モテキャラじゃあないんだ。

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↑ 教師相手に壁ドン。一話目からかましてくれる。

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↑ 高校生だが1LDKに一人暮らし。たまに旦那と喧嘩した姉ちゃんが帰ってくる。

 

 ●風呂敷を広げたら、着地点がなくなってしまった

ええと、まとめますと、私はラブコメというジャンルが大好きなのです。カンナとレモンに注目するというのはラブコメの楽しみ方です。しかしラブコメはシリアスなストーリー展開で盛り下がることが多い。つまり、ラブコメとしての『あの夏』は『あの花』のトラウマ要素を引き継いでいなくて良かった…ということになるのかしら。

 

そしてここまで書いてみて、トレンディードラマの定義がかなり偏向しているのではないかという気がしてきた。つーかトレンディー関係なくないか。いや、トレンディーアニメとしての『逆シャア』に言及すべきだったのか。

 

つまり、

 

非常に反省している!

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↑ 結局カンナに告白して振られた。近くで遊んでいた子どもたちは、ただならぬ気配を感じて退散した。見よ、この画面を満たす「」のライン。そしてこの後、一部始終をストーキングしていたが丸顔ミオが登場し、巨乳を背中に押し付けられながら迫られ、ついに屈服する。しかし最後までまなざしを交錯させないのが哲朗の美学だ!

 

 

 

*1:あの花』とは別の方法でのノスタルジー演出です。8mmカメラというガジェットの使用。『視覚文化「超」講義』参照

*2:トレンディードラマのターゲットはF1層だったということですが、「連ドラのようなアニメ」をコンセプトにしたフジテレビのノイタミナ枠も初期はF1層をターゲットにしていたようです。長井監督は初期ノイタミナの代表作『ハチミツとクローバー』のⅡで監督を務めました。

*3:あるいは「学園モノ」という観点から『愛という名のもとに』と『あの花』に連続性を見いだせるかもしれない。おそらくかなり早い段階から日本に「スクールカースト」の概念を、社会学ではなく物語要素として紹介した『ハイスクールU.S.A.―アメリカ学園映画のすべて』(2006)という本がありますが、本書では80年代から2000年代のアメリカ映画に連続する「学園映画」というジャンルを提唱しています。そして、昨今の日本のティーンを主役とするアニメが「学園」を主題としていることは自明ですが、『愛という名のもとに』もかなり学園の臭いを残したドラマであります。

アメリカではティーン向けの映画やドラマのバックグラウンドにスクールカーストがありますが、日本ではむしろマンガやラノベやアニメにおいてスクールカーストが描かれやすいです。これは、いじめなどのシリアスなトラウマ要素を、スクールカーストという関係性のスティグマに変じることで、やや戯画化して描くことができるのかもしれない。もちろんそこで生じる「友達地獄」などの切実な息苦しさなどは、別の主題となるのでしょうが。たとえば、ドラマの要素としてのトラウマはあくまでそのドラマ内で「克服」「クリア」できる対象として扱われがちだが、スティグマはドラマ内で内面化していくものなので、むしろ「卒業後も続く」ような怖さがあります。

*4:たとえばユキアツというキャラは「死者が見える」というステータスに異常に拘泥します。

*5:Angel Beats』にも似た要素がありますが、あちらは登場人物が虚構世界で「演じている」ということに自覚的である点で異なります。「クサい」「ハズい」と感じましたが、不気味さは感じませんでした。

*6:私見では「アニメでやる必然性」の最たるは「重力に逆らう」という表現です。実写では技術や予算の関係で出来ないアクションが、アニメ内の登場人物には容易に可能である、ということはアニメ表現の原初的な欲求だと思います。たとえば『鉄腕アトム』。