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ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)

ネトウヨ化する日本 (角川EPUB選書)

 

 

ネトウヨとは何なのか、「フロート」「共感主義的リアリズム」などの概念で考察しています。個人的に勉強になったのは、2ちゃんねるの出現から在特会の台頭までを、ネット文化のトピックを挙げながら時系列でまとめてあるところでした。『戦争論』、「世界史コンテンツ」、「VIP」などの関連コンテンツがなんとなくひとつのラインでつながった。ネットってどこが地理的中心なのか分からないから、このように記述してもらえると、なにかしらの立脚点になります。

「『インターネットとは2ちゃんねる(的)である』というテーゼのもとに議論を進め、インターネット全体におけるネトウヨの来歴を整理します」と明快に述べているように、ネット史の一つとして読めます。

 

フロートという概念を用いた考察については次のようにまとめています。(以下、引用の太字はすべて原文に依拠)

フロートとは、ネット時代の新中間大衆として、情報と共感的に触れ合う存在です。そのような人たちにとってネトウヨ化とは、いわばネトウヨ的情報を素直に受け取ってしまったがゆえの右傾化状態と言えます。そこでこのことを、ネトウヨ化したフロートとは何者なのか、という意味合いにおいてまとめ直すとすれば、それは、「これまで政治的な活動をしたこともなければ、政治的主張も持っていなかったにもかかわらず、日常的にスマホなどでネットを利用している中で、自然さを装った様々な情報に触れているうちに、右翼的、保守的、反・反日的な情報・思想バイアスを受けてしまった人たちのこと」となるでしょう。

 ネトウヨの例文としては、片山さつき議員を「もはや保守的というよりもネトウヨ的と言った方が適切かもしれません」と形容しているのが個人的に分かりやすいと思いました。一種のモードのような。

 

「共感主義的リアリズム」というタームについてはピンとこなかったのですが、「臨場感」(現前の形而上学から現代人の情報との関わりを考察しているところは面白かったです。現代人がとくに都市伝説のようなデマ、流言、言説を信じやすくなっているのは、「情報の臨場感にしたがってその重要性を判断」しているからだとし(つまり情報の正否とは別の位相で、自分が情報にアクセスしているという臨場性が、情報の信頼性と結びついてしまっている)、そこにスマホを指で繰るときの「情報に手で触る」というさらに臨場感を添える経験が大きく作用しているという指摘です。

手で触るものだから臨場感があるのだと言う時、同時に、まさに手の拡張物として、スマホは手のように私たちのそばにあるがゆえに、それを通じて繋がっている情報環境とそこからもたらされる情報もまた身近なものとして扱われるようになるのではないか―― 。

 

第3章までがこういった考察で、第4章は日本浪漫派との比較分析です。ここは文芸評論の伝統、といったスタイル。読み飛ばしました。

最後の第5章が「京都アニメーション」と「カゲロウデイズ」を俎上に挙げたサブカルチャー批評。宇野常寛の『ゼロ年代の想像力』の問題提起に接続するかたちで語られます。じつはこの部分の記述を楽しみにしていたのですが、丁寧に解説されいている分、冗長であり、また正直内容もよくわからなかった。

ただ本書全体として、文芸批評と文化批評(これを「文芸批評=東浩紀まで」と「文化批評=宇野常寛以降」と見立てると非常にキャッチーなのですが、そんな事実はないでしょうね。)をミックスしたようなスタイルが興味深かったです。